とうとう釈放の日が来た。仮釈は貰えなかったがまあいいや。告知の時所長が
「よく真面目に務め上げた。社会に出てもこの気持ちを忘れないよう頑張って、もう二度と罪を犯さないようやってもらいたい」
 と言ってくれた「はい、頑張ります」と心で返事して頭を下げた。
 又足は小樽に向く。陸にいては気が緩んで又悪い心を起こすかも知れない。俺ももう四十二だ、今の内に立ち直らねば駄目だ。街で樺太の木材積取人夫の広告を見て、それに決めた。
 その頃小樽港は殷賑を極め、二年前に堺町岸壁が完成し、本船が横着けするようになったが、まだ港内に錨を下ろして荷役する貨物は、艀に一旦荷下ろしされ、また、陸からも艀に搭載された貨物が本船に運ばれ積み込まれるので大小の艀が、曳き船に曳かれて港内を行き交い、港の活気を引き立てていた。従って荷役する労働者も大勢で、この人達を仲仕と呼んだ。力仕事が主であるため屈強の者が多い。
 仲仕には、陸仲仕と沖仲仕(又は船内仲仕)とあり、沖仲仕は、荷を降ろしたり、岸壁から艀に積んで来た荷を本船に積み込む作業をするのである。
 広告に書いてある中一谷口組は、色内町とあったので、雑貨屋で聞いて駅前の坂を港の方へ下がって行った。石造りの倉庫群の近くでその事務所を見つけた。
 中に入って
「あのー」
 と近くに坐っていた男に声を掛けた。五十近いその男は
「なんだね」
 と言って清吉を見た。
「積取人夫の募集広告を見てきたんですが」
 おずおずしながら言う。男は改めて清吉の体を見直し
「相当きつい仕事だが大丈夫か、これ迄何をしていたね」
 と聞く、まさか刑務所に居たとも言えず、
「旭川の造材山で働いていました」
 と言う。これなら本当に働いて居たことがある。
「そうかね」
 と言い奥の方の机に行き上の人と思われる男と何か話し、戻って来て
「それでは働いて貰うが、次の船が入るまで下宿に泊まって居てくれ」
 と言う。清吉は、自分で宿を探さねばならないのか困ったなと思っていると男は、何処かに電話を掛け
「ああやまこさんかね、今人夫を一人廻すから宜しく頼みます」
 と言って切ったので安心する
「ここを出て、右に一丁程行くと、この店と同じ側に山小と言う下宿があるから、中一から言われて来たと言えば泊めてくれる。細かいことは、後で頭が説明するから」
 と言う。その通り行くと、成程「山小下宿屋」と看板のある店がある
「ご免下さい」
 土間に入って声を掛ける。右手が帳場になっているらしく机の前に坐っている中年の男が「はい、何だね」
 と言いながら硝子戸を開けた「中一さんからこちらに行けと言われて来たんですが」
「ああ、今電話が来ていた、その十一番と書いてあるのがあんたの下駄箱だ、履物を其処に入れて上がりなさい」
 と言われ、履いた地下足袋を下駄箱に入れて上がり、硝子戸を閉めて上がり口に膝を折り坐る。
「楽にしなさい、私はここの主人ですが船が入るまで泊まって貰うことになる。船に積み込む布団あるかね」
「いえ、ありません」
「そうか、うちで貸します、大抵の人はそうしているんだよ、但し、貸賃は貰うけど、航海の後清算することになっているんです。ここでは六人部屋になっているから、今部屋に案内させるから」
 廊下の方の硝子戸を開けて奥の方へ
「おい、誰か居ないか」
 と声を掛ける。
「はぁーい」
 と元気のよい声がして、バタバタ音を立てながら小走りに三十台の女が来た。
「この人を五号室に案内してくれ、ああ、名前を聞いて置くかな」
 半分は清吉に言う
「杉本清吉です」
「杉本せいきちは清に吉かね」
「そうです」
 主人が帳面に書きつけた。
 部屋には五人の男が、一升瓶を中にして茶碗で酒を飲みながら大声で話しをしている。女中が
「この人も仲間ですから」
 と言うと、一番年配の額の這い上がった男が
「さあどうかどうか」
 と言いながら膝をずらして席を作った。清吉は
「初めての者ですが、宜しくお願いします」
 と膝に手を当て一同に頭を下げてからあぐらをかいて坐り直す。一番若そうな男が、テーブルの上の茶櫃から湯呑みを一つ取って清吉の前に置き
「一つどうですか」
 と言いながら、瓶を傾けて注いだ。清吉は慌てて茶碗に手をやり
「済みません、あまりいけないんです」
 と言い足して礼を言う。五人は何回か積取船で顔を合わせているのか馴れ馴れしい話し振りである。清吉は酒を舐めながら黙って話しを聞いている。
 当時樺太からの木材積取りは、東海岸の敷香、樫保、西海岸の西棚丹などが基地となっていた。尤も、東海岸は冬期間は海岸や川の凍結、流氷などのため作業が出来ず、五月から十一月迄が大体積取期間となっていた。西海岸は冬も梅が凍らないので、年間を通じて積取りが出来た。
 木材の取り引きは、現地の山林を一括購入して、伐採から船積み、販売までを一手でやる業者が大半で、小樽では中宇、東などと言う業者があった。
 運搬の船は傭船で、二、三千屯級で、一航海一週間かかり、一航海一万二、三千石を積み、大型船では二万石を積取りするものもあった。
 傭船料は、日借りと船腹(フナバラ)とあり、日借りでは石数に関係無く、一日幾ら(三千屯級で八百円)の料金なので、木材業者は積む程利益になる。しかし、航海の安全を考えて船長は無茶の積み方はさせない。だが船腹となれが積んだ石数によって船代金を支払うので、船主の方では、自然無理してでも積載するようになる。人夫の方も、日借りの船に乗るのを喜ぷ傾向があった。積取人夫専門の宿泊所(下宿や)に人夫の人数を割り当てて宿泊させるのだ。
 その日夕食後、人夫全員が食堂に集められた。五十年配の男が、板の間に坐った人夫の前に立って、十人づつ縦に四列に並ばせ数を確かめ
「此処に四十人居るが、一つの組となって乗り組んで作業をする、俺は組頭の斎藤だ、此処に居るのは世話役の木村、中野、佐藤だ、宜しく頼む。大雑把に説明すると、先ず、賃金は初めての者以外は知っていると思うが一日三円が最高だ、成績の悪い者は減額されるからしっかりやってくれ。切揚げで小樽に上陸したとき、この下宿やで清算する。それから怪我した時は、治療費は自分持だから怪我しないよう気をつけて働いてくれ」
「質問があるんだけどいいかね」
 組頭の説明が終わると一人が声を掛けた
「ああいいよ」
「働き具合によって、成績の悪い奴は減額されると言うことだが、成績の良い悪いは誰が決めるのかね」
「それは、頭と世話役とで相談して決める。これ迄もそうして来たんだ」
「ああそうですか、すると」
 と言いかけたが
「わかりました」
 と打ち切る。頭の、文句は言わせないぞと言う態度を感じたのだろう。
「乗船は明後日だ、時間は連絡するから、明後日は全員宿で待機していてもらいたい」
 これだけ言うと頭と世話役は引き上げて行った。人夫達も夫々部屋に引き上げた。同室の頭の這い上がった男が
「頭の奴痛いところを突かれたな、頭のお天気次第で減らされてはかなわない。だが奴等も無茶は出来ない、この前の統一ストが大分効いたからな、それにストでもされたら親方に対し顔向けが出来ないし、第一、自分等の収入も少なくなる。ピンハネが出来ないからな」
 と言った。皆もそうだそうだと相槌を打つ。清吉はそこの仕組みがどうなっているか判らないが、何処の世界も上の奴はうまいことをするのだなと思った。
 その頃(昭和初期)の賃金は、頭や世話役は仲仕供給業者の常傭で、世話役が一日四円、頭は一人二分つまり四円八十銭を保証されるが、使用業者が賃金の平均化に留意して、儲けの大きいときは準備金として或る額を取って置き、利益の少ないときは準備金を取り崩して使うようにしていた。しかし、一般に仲仕は「怪我と弁当は自分持ち」と言い触らされていたように港湾労働界はやっと夜明けがやって来たと言う段階であった。常傭以外の積取人夫は、一人分一日三円が一等切符、以下成績により二等三等四等と減額される。しかし、あまり多くは減額出来ない。積取りは金になると言われていて、それが目当てで働きに来るので、陸で働くのと同じなら人夫も集まらないからである。頭の中には無学の者もあり、切符に表示する際、鳥や犬の形を書いて数字に変える者もあった。また、人夫に解り難い符号、例えば、業者「中一」谷口組に傭われている頭は業者の屋号をとり、ナ、力、イ、チの符号で一、二、三、四の等級を決めている者もあった。何れにしても人夫の賃金は頭によって左右されるのである。
 清吉は部屋に一人仰向けに寝そべって天井を見つめている。他の人夫は、明後日の乗船を控えて夫々町へ出た。所持金の少ない清吉は、遊びに出る訳にも行かない。これからの仕事や、金を貯めて何か商売をしたいなとあれこれ考えていると、襖を開けて男が声を掛けた
「なんだ一人か、小遣い銭稼ぎにビラ貼りをしないか」
 起き上がって見ると、精桿な風貌の三十も半ばと見える男である。清吉は、少しでも金の欲しいときなので
「ああ、いいよ」
 と承知すると男は
「それでは一緒に来てくれ」
  誘った男に尾いて三人が宿を出る。そう遠くない運河沿いの、倉庫群の外れの粗末な建物に入る。住まいではなさそうだ、事務所か何かだろう。床に板を張っであって土足で上がるようになっている。
 狭い部屋の真ん中に、木製の机が一つ置いてあり、上にビラが積んであった。中に三十位のワイシャツ姿の男が二人居だがその一人に、誘った男が
「ビラ賭り人夫を連れて来だぜ」
 と声を掛けた。掛けられた男が
「このビラだ、これを堺町から手宮にかけて道路沿いに貼ってくれ、田面賃は一人三十銭だ」
 と言う。誘った男が
「安いな、もう少し出せないか」
 と言う。相手は
「時間もそう掛からんだろう、それにこれはお前達の為にやっているんだ」
 と言った。清吉には、どうしてこのワイシャツの男等のしていることが、俺達の為になるのかさっぱり判らない。誘った男は、それ以上値上げのことは言わず、清吉等三人に
「どうだ」
 と意見を聞く、三人は互いに顔を見合わせたが一人が
「仕方無いべや」
 と言い後の者も頷く。ワイシャツの一人が、掛けてあった背広のポケットから財布を出し金を数える。誘った男が
「皆で分けるから細かいのでくれ」
 と言った。この男は、ピンハネはしないなと清吉は思った。此処で糊の入った小さなバケツ二個と刷毛二個を借り、ビラを半分の高さに分けて外に出る。ビラを持つ者バケツと刷毛を持つ者二人一組になって貼って歩くことにしたが、誘った男が
「先に堺町から廻るべ」
 と言って歩き出した。清吉はビラを持って尾いて歩いた。町の電柱や壁板の所々にぽつんぽつんと貼って歩く。誘った男は、わざと間隔を遠くして貼らせるように清吉には思えた。手宮の市場付近に来たとき、まだ半分くらいは残っていた。
「もういいわ、金を分けるぞ」
 誘った男がそう言って先になり浜辺に出て石に腰を下ろす
「残ったビラをくれ」
 と言うので、清吉ともう一人がビラを渡すとその男はビラを皆の真ん中に置き、二、三枚づつ揉みくしゃにして燐寸で火をつけ燃やし出した。清吉は、頼んだワイシャツの男等に悪い気がしたが、黙って燃やしている男の手許を見ていた。他の二人も何も言わない。
「お前等の為にやっているんだなんて、体裁のいいことを言いやがって」
 と呟く男の顔を改めて見つめる。夜だったし、余り字の読めない清吉には、文面はよく飲込めなかったが
「団結せよ労働者」と書いた大きな字と、下の方に、拳を振り上げて叫んでいる労働者風の若者を画いであるところから、労働者のための宣伝ビラとは判ったが、何故わざとビラを貼り残して燃やして終うのか腑に落ちない。
 燃やし終わると、誘った男は金を三十銭づつ分け
「バケツと刷毛は俺が返して来るからお前等は先に宿に帰っていてくれ」
 と言いバケツを両手にぶら下げて別れて行った。悪い人間ではないなと、清吉は思った。翌日朝食時食堂で、人夫の懇親会が開かれた。明日出帆すれば、十日ぐらいは一隻の船に運命を託して共に働く仲間であると言う意識があるのであろう、皆和やかに談笑している。雇い主である業者から酒が振る舞われた。積取中いざこざのないようにとの配慮からであろうか。全国各地から様々な人間が集まっている。お国分丸出しの民謡を聞きながら、清吉は故郷を思い出していた。明朝八時乗船の触れがあった。
 翌日朝早くから宿は喧喋を極めていた。各人が荒縄で縛った煎餅布団一組を担ぎ、後は風呂敷包みの者、信玄袋を持つ者、旅行鞄を下げた者等色々である。世話役の引率で運河に浮かんだ艀に乗る。これをポンポン蒸気が曳いて岸を離れる。艀の上から頭が、岸まで見送りに来ていた、業者の雇い人であろう屋号の入った印半纏を着た男と互いに手を振っている。運河の橋の下を潜って港内に出る。沖に碇泊している二本マストの、煙突に二本の横白線のある船が、清吉達の乗る船だと言う。
 頭が、本船に着くまでに船内の心得を話す
「宿で、同じ部屋番号だった者は今後も一グループとなって仕事をする、乗船してからの寝場所は、普通の船室が足りないので、臨時に使う場所を決める、これは船に上がってから指定するから仲良くやってくれ」
 と言う。艀の舳先や両舷には、古タイヤが防舷材として取り着けてあり、本船に横着けしたときも鈍い衝撃を感じただけであった。タラップを順に上がって乗船する。甲板に部屋番号順に並ぶ。この時初めて気付いたのであるが、ただ一人、大きな木箱を特別に持ち込んだ者が居た。清吉が
「あれはなんだね」.
 と丹に聞く、丹とは、同部屋になった額の這い上がった男の姓で、船内でも同じグループだと言われた後、互いに名乗り合ったので判ったのだ。
「あれは日用品が入っているんだ、人夫の内から一船一人だけ親方の許可を受けて、船内で作業の合間に商売をするんだ。品は自分で仕入れるんだが、他に買う場所がないから結構商売になるらしいんだ」
 と教えてくれた。清吉は、金を儲ける者は違うものだなと感心する。
 人夫の起居する場所は、石炭バンカ(燃料用石炭を積み込んだ船倉)の石炭の上に板を敷いて船室代わりとしたもの、アンダーブリッヂ、炊事場付近の空いた処等で、雨露を凌ぐことの出来る場所が当てられた。
 清吉等は、石炭バンカに決まった。此処は石炭の上に板を敷いてあるが、石炭が減るに従って板敷きの床が沈んで行く、それも、水面のように水平を保って減ればよいのだが、凹凸が出来るのでその都度石炭の表面を均して、板を敷き直さねばならないのだ。これは、グループの一人で前に経験のある者が教えてくれた。
 乗船が終わると船は錨を揚げ始めた。船橋と舳先で巻き揚げ作業をしている者の間で、互いに笛を吹いて合図し合っているのが聞こえる。
 居住区に、夫々布団や持ち物の置き場を決めて人夫は皆甲板に出る。足下から、エンジンの音が規則的な波長で、全身に広がって心を揺さぶる。皆が段々遠退いて行く市街を、夫々の想いで眺めている。その間、旭川の八年間は人並みの生活をしたが、あとは横道の生活であった。服役中、教講師の坊さんが
「この世には、始めから善とか悪とかと決まったものはないのだ、受け取る人の心によって善ともなれば悪ともあるものだ」
 と言ったが、俺には未だよく判らない。人には運、不運と言うものがあるのでないか、いや、そう思うのも自分の心次第なのだろうか。兎に角今度こそ立ち直ろう、と心に誓う。船内の所々に備え付けてある浮輪に、白川丸と書いてある。船は石狩湾に出て、一路北に進む。幸い晴天で波も小さく少しも揺れを感じない。甲板の彼方此方で花札が始まった。見ていると金を賭けているようだ。
 清吉は、石炭バンカに引き上げて横になった。何時の間にか眠ってしまったらしい
「めしだぞ」
 と言う声で目を覚ました。昼食であった。人夫の食事は、人数が多いので二度に分けてするらしい。人夫のために、特に食堂と書いた木札が打ちつけてある出入り口から、食事を終わった者が続いて出て来る。入れ替わって階段を下りて中に入る。炊事のカウンターに出してくれる食事を、各自が受け取ってテーブルに運んで早い者から食べ出す。
 人夫の二、三人が食器洗いを手伝っている。このような場所は、矢張り、新参者にはとても入り込めない。年期がいるのだ。別に賃金が出る訳でもないが、何か余徳があるのであろう。
 食事が終わって甲板に出ると、三三五五固まりを作って、話しに打ち興じている。集団の中には何人かは話しの上手い者が居て、笑いのうちに各人の心を結ぴつけるのだ。中には大学で政治学を勉強している学生と称する者が、十人程集まった人夫に、政党政治の在り方や、現在の政党の批判などをし、労働者は団結して自由を勝ち取らねばならないと啓蒙している。清吉には、話しが難しくて解り難かったが、労働者の団結などと聞いて、ふと、宣伝ビラを焼いた男を思い出した。そう言えばあの男は見掛けないが、急に乗船を取り止めたのであろうか。
 夜に入って風が出て来て波も高くなったようだ。横たえた体が船ごと持ち上げられては底へ落ち込んで行く。石炭バンカの寝心地は上等ではないが、監獄部屋よりは未だ増しだ。
「何処ですか」
 と丹に聞く
「敷香だ」
 と教えられたが、樺太の何の辺か検討がつかない。しかし、昨日から左方遠く陸地を見ながら走っていたから、大分北の方だなと思った。
 朝食は早い、船内は活気を帯びて来た。清吉の班は、船首側の船倉で、積み込まれる丸太を処理することになった。道具は鶴嘴、長柄のトビ口、ガンタで、ガンタとは、樫の棒の中間に、湾曲した、先端に爪のある鉄の金具を取り着け、これが一定の角度で手前に開くようになっていて、棒の上方に肩を当て、金具の爪先を丸太の下方に刺して肩に力を入れて持ち上げると、棒の先端と金具の爪とで丸太を挟み、前方に転がす仕掛けになっている用具である。
 狭い船倉内の作業なので危険を伴うのだった。でも、船内には医者は居らず、一寸した怪我は機関長等が手当てしてくれるが、応急の手当てだけだ。それも素人なので、手に負えない怪我は、曳き船を呼んで陸の医者に診せるのだが、場所によっては医療機関の無い所もあり、そのようなとき怪我した人夫は不運と諦めるより他に仕様がない。丹が
「怪我と弁当は自分持ちだから気をつけろよ」
 と言う。学者と呼ばれていた大学生が、資本家は金儲けだけで無く、労働者が病気になった時のことも考えて、医者を乗船させるべきだと言っていたが、清吉も本当だなと思う。
 丹に、どうして大学生が人夫になるのか聞くと
「休みを利用して、勉強のため論文の材料を仕入れに来ているのさ、俺達と違っていいご身分なのさ」
 と言った。陸地に川が見え、その川口付近で丸太が筏に組まれているのが見える。これを曳き船が曳いて来て、本船の脇腹に置いて行く。それを小舟に乗った人夫が、細いので二、三本づつ、太いのは一本をワイヤーの輪を通してウインチで巻き揚げるのだが、その際船上で曳き綱でデリックを操作するのだ。この操作も注意を要する。ウインチの操作員は、木材が舷側より上に来なければみえないので、舷側に、吊り揚げ状況を見ながら合図する役目の者が一人就く。これ等の者は経験が必要で、切符の等級も良いのだろう。
 清吉は、丸太が船倉の上に現れると、今にもワイヤーから外れて落ちてくるような恐怖を覚えた。
 丹が長柄のトビ口を丸太の一本に打ち込んで、程良い場所に引っ張って誘導する。合図係が、船倉に吊り下げられた丸太の位置と船倉内の者の合図を見ながら、ウインチ係に手で合図して船倉に下ろすのである。丹が
「積むときは、横揺れに会っても荷崩れしないよう考えて積まなきゃならんのだ」
 と教えてくれた。何の作業も皆連携して進めねばならない。流れのどの部分も手抜きや勝手な真似は出来ないのだ。最初頭が仲良くやってくれと言った意味が解ったような気がする。
 白川丸の他に三隻の同じ位の大きさの船が積取りをしており、互いに競争になるのか、夕食後も作業をすることがある。
 船内販売をする男は合図係であった。作業終了後就寝時間の十時までが販売時間だが、日用品の他にビスケット、乾パンなどもあり、これもよく売れた。
 陸の作業の遅れで、早めに船内作業が終わったとき、丹が、陸の作業のことを教えてくれた。山で切り出した木材は、丸太にして川を流送し、川口で筏に組んで本船に曳いて来るのだが、川の流れを塞き止めて水量を増し、一気に堰を切って川下へ丸太を押し流す方法が採られ、これを鉄砲と呼んでいる。伐採、流送や川口には人夫が沢山働いていて収入も良いので、これを相手の料理屋、飲食店が繁盛している。料理屋の中には、造材業者が資本を出しているものもあり、賃金を払ってまたこれを巻き上げる仕組みになっている。だから、船内作業と違って、遊ぶにはよいが金は溜まらないと言う。
 成程二つ良いことはないんだな、俺も今まで、他人の金を汗を流さずに戴いていたが、直ぐ遊興に使ってしまった。敵娼となった女も金以上のものでなかった。反って、金遣いが荒いと言うので出入りの刑事に告げ口され、悪事が露見してしまった。旭川で夫婦になった女も、俺に煮え湯を飲ませたではないか、女には気を付けねばならないと、自分に言い聞かせた。
 頭が、始終船内を廻って人夫の作業状況を監督している。清吉は初めてなので、自分の貰う切符がどのくらいの賃金に当たるか判らないが、自分なりに怠けずに働いている積もりだ。
 この航海は順調で、一週間で小樽に帰り、積んだ材木を船から下ろし、やっと陸に上がったのは九日目であった。溜まった切符を頭に渡し、翌日下宿の主人から清算して受け取った金は十円であった。
 清算が済んでから、次の船に乗る希望者を募った。清吉は、もう一度行くことにした。この分だと、辛抱すれば纏まった金が出来そうだ。その上でよい仕事先を探そうと思った。
 今度の船は吉田丸と言った。前の白川丸と同じ三千屯だと聞いた。おやじさん(丹のことをこう呼ぶようになった)も一緒であることは心強かった。
 起居場所が、今度は石炭バンカでなかったのでやれやれと思ったが、炊事場近くで、船員食の美味しい匂いには、食欲をそそられて閉口した。一計を案じ、炊事係に
「何か手伝うことはありませんか」
 と尋ね皿洗いの仕事にありついた。これは、余禄を狙ってのことである。夕食後の楽しみと言って別にないし、賭博は固く心に禁じてした。皿洗いを手伝う時間はある。
 食事が済むと炊事場はカーテンで仕切られる。炊事係が、船員食の余りを皿に取り清吉の前に出して食えと言う。狙っていたこととは言え、事が順調に運んだことが嬉しかった。船員は、どうしてこんな美味しいものを残すのだろう。この船にも「学者」が乗り込んでおり、就寝前
「今は言論の自由がない、国民の幸福を増すためには、先ず、言論の自由を掴まねばならない」
 と皆に説き聞かせていたが、清吉には、炊事場の残飯の方が関心があった。
 積荷は三日で終わり敷香沖の描地を出帆した。この船は、傭船料が「船腹」なので、甲板上にも高く木材が積み込まれいた。おやじさんが
「こんなに積んで、時化に遭ったら危ないんでないかな」
 と小首を傾げた。一昼夜過ぎた頃風雨が強くなった。船は、重心が上がっているため、一度横に傾くと仰々元に戻らない。.時化の経験のない清吉は、このままひっくり返って終うのでないかと思い、その都度、知らず知らず助けてと心のうちで叫んだ。通路に転がり出た体を、何かに捕まって支え「ナンマンダ」と念仏が口に出る。何時間経ったろう。時間のことは判らない。風雨は変わらないようだが船の傾きも浅くなり復元も早くなったように思った。しかし、等間隔で頭の上を波が流れて行くのが判る。船体諸共高い山に押し上げられたかと思うと、今度は、奈落の底へ沈んで行き底に突き当たってドドドンと船体を振動させる。生きた心地もない。俺の一生もこれで終わりかとふと思う。神様何とか助けて下さいと口に出る。この世に神仏が居るのかどうかなど、穿鑿する時間も余裕もない。いや、必要もないのだ。ただ、人間界を超越した力に縋りたいと言う一念だけである。
 船体の揺れは未だあるが、船内を転がるようなことはなくなった。船員が甲板から下りて来て
「甲板長が、材木のロープを切って一緒に流されて行方が判らなくなった」
 と告げた。皆の口から驚きと悲しみとが一つになって呻き声が洩れる。今まで沈黙していたおやじさんが
「甲板長は、自分の命を捨てて船を救ったんだな」
 としんみり言った。
 今度の航海で船の恐ろしさを嫌と言う程味わった。上陸したときは、大地の有難さをしみじみ思った。小樽港に着いたとき見ると甲板に積んであった木材が縞麗に無くなっているのに驚いた。業者は大損をしたろうと思った。
 上陸前に、頭が、死んだ甲板長は我々の命の恩人だから、一人一円づつの見舞金を出すことにすると言い渡した。
 今回の手取りは、下宿で清算した結果五円にしかならなかった。業者は、損を人夫にかけて来たのでないかと思う。再び積取りに行く考えはなかった。
 二日程安宿に泊まり飲み歩いているうち、心の底の悪心が頭を持ち上げて来た。刑務所を出るとき、今度こそ真面目に生活しようと決心したが、俺のような下積みの者は、財産のある者、社会的に力のある者に操られているだけでないかと思う。心に迷いが出ると、掏摸の誘惑が大きくなって来る。
 小樽では刑事に目をつけられているから、未だ一度も行ったことのない函館に行こうと思い立ち、函館行きの汽車に乗った。車中で、いや待てよ、と自制心が頭をもたげる。盗みをしても何時かは捕まる。今度は刑期ももっと重くなるだろう。段々歳も取って来る。何時か刑務所で一緒だったあの老囚人の
「シャバは暮しにくい、ムショの方が年寄りにはいいな」
 と言った言葉を思い出す。ああなってはおしまいだ、今のうちに立ち直らねば取返しがつかなくなる。兎に色仕事を探すことが先だ。
 函館には朝早く着いた。駅前へ出ると、右手の方で人が雑踏している。小樽で買った中型トランクー個を提げて人込みに入ってみる。朝市である。色々な品が溢れるように台の上に並び、客を呼ぶ勇ましい掛け声があちこちで掛る。まるで戦争のようだ。こんなに売れたら商売も面白いだろうなと思う。店を見て歩いているうち、自然に目が他人のポケットに行く。自分ではっとして市場を急いで出た。
 駅付近の食堂で朝食を済ませ街へ出て、当てもなく海岸沿いに右の方へ歩く。造船所が二、三箇所あったが、若い者ならいざ知らず、手に職もない中年に達した自分を、使ってくれる筈がないと頭から決めて、聞きもしないで駅の方へ引き返した。途中坂の上の方にトンガリ屋根の変わった建物が二つ見えた。これが教会だとは清吉は知らない。どうも職探しも徹底しない。湯の川温泉街にも行き、旅館の下働きにもと思って聞いて見たが、確りした身許引受人が無ければと断られた。風体を見て断ったのかも知れない。どうも考えが甘かったようだ。
 二、三日安宿で過ごし金も少なくなって来た。半分自棄気味で、繁華街大門通りへ出て、焼き鳥でもっきり一杯を飲む。焼き鳥屋を出て、雑踏する人混みの中を歩く。前を行く漁師風の三人連の一人の兄ポケットから財布が半分顔を出しているのが目に付く。洋品店に入った三人の後ろから吸いつけられたように続いて入る。狭い、陳列品の間の通路を、財布の男の後方から体をぶっつけてすり抜けた。
「ああ、済みません」
 と謝って離れる。相手は別に意に掛けないようで他の二人と品定めをしている。財布を掏られたことに気付かないようだ。直ぐ店を出て横小路へ入り、財布を改める場所を探したが格好の場所がない。上衣のポケットに入れたまま通りへ出、買い物客を装って靴屋と洋服屋へ入り、一廻りして道路へ出たところ、先程の三人連れともう一人の男に出会う。一瞬ギョッとする。が、素知らぬ風でそのまま歩き続ける。早く財布を処分すれば良かった。後悔するがもう遅い新たに加わった一人が
「一寸」と声を掛け三人に
「間違いないね」
 と確かめる。掏られた男が
「間違いないです」
 と言うのを聞いて清吉に
「一寸交番まで来てくれ」
 と言った。清吉は観念した。
「済みません」
 と言ってポケットから財布を出して差し出す。これを受け取った刑事は、掏られた男に
「あんたのに間違いないかね」
 と念を押す
「中に船員手帳がある筈です」
 と中を確かめ
「この通りあります」
 と言って出して見せる。
「あんたも一緒に来てくれ」
 と言って、連れ立って交番に行った。交番で、財布の中身を確かめ、書類を作り被害者に返した。その男は明日函館を発つと言うので、他の巡査が被害者の調書を作る。清吉は、捕らえた刑事が調べた。掏った状況を隠さず話す。所持金三円五十銭について、掏ったのでないかと疑われたときは、むきになって弁解した。宿からトランクを取り寄せて中を調べられたが、もとよりめぼしい物はない、その日は本署の留置場に入れられた。
 翌日小樽署からの返事で、積取りで働いていたことが判り、その後追求はなかった。刑事は
「被害がそっくり還ったのがお前の為にもよかったんだぞ」
 と言った。
 この罪で懲役四年の刑を受けた。掏摸の常習者と見られたのだ。刑が確定してから札幌刑務所に廻された。
 所長は替わって別の人だったが看守部長は顔を覚えていて
「又来たのかしょうがない奴だな」
 と言われたときは穴があったら入りたい気持ちだった。
 単調な刑務所生活が始まった。四年の刑期を終えてシャバに出るときは、俺ももう四十六になる。又、あの老囚人のことを思い出した。うかうかできない。一体盗みで、今までに自分で使うことが出来た金は幾らになるだろう。帯広の競馬場で掏った三十七円だけでないか。この間に、服役で過ごした年数は九年と四カ月だ。一年を三百六十五日として全部で何日だ。看守に頼んで鉛筆を借り塵紙で計算して見た。三千四百五日になった。すると一日幾らになるのだ。三十七円をこの日数で割って見た。一銭でないか。間違いではないかと確かめて見る。間違いではない。自分でも吃驚する。俺は人間として何とつまらない生き方をして来たことだろう。一日一銭の人生だったんだ。こんな割の合わない生き方は止めよう。今後はどんなことをしても人の物を盗むようなことはすまい、と決心する。釧路を切り上げる途中狩勝峠の車中で、死んだ土工を弔ったあのお婆さんの顔を思い出した。
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