このようにして、辛い監獄部屋の労働も二年で終止符を打った。組の仕事が切り揚げとなったのである。夏であった。飯場事務所で、赤ゲットをズボンに履き替えたときは、やっと自分に戻ったと思った。清算のとき、自分の貰い分が余り少ないので
「これだけですか」
 と聞くと
「何っ」
 とじろっと顔を見据えながら
「なんぼ大金を貰えると思っていたんだ、甘い物も随分食べているんでないか」
 と言う。成程週一回の販売日には、パンや菓子類を買って食べたが、自分なりに計算して食べていたのだがどうも腑に落ちない。相手はそれを見て取ったのか
「此処にちゃんと精算書がある。それとも組でゴマかしたとでも言うのか」
 と凄む。こんな所に長居は無用と思い
「いや、そんなことないです、いいです」
 と言って風呂敷包みを持って外へ出た。俺ばかりでない、みんな醜い目に遭ったのだ、と思いながら飯場を振り返る。苦しかった二年間の色々のことが一塊になって心を押し包んだ。そして、後をも見ずに釧路市街を目指して駆け出した。
 飯場で貰った金は三円五十銭である。夕方釧路市街に着いた。兎に角宿を見つけねばならない。それも高い宿賃はない。裏通りのような所を探し歩き「安宿一泊一円」の看板を見つけ入る。窓口の爺さんが
「食事なしの前金ですがね」
 と言う。年増の女に、廊下の奥の方の部屋に案内された
「お風呂は近くに銭湯がありますからね」
 と言って、押入れから布団を出して敷く。本当に久しぶりで畳の上で布団に寝るのだなと思う。布団は消毒臭かったが、夕食も取らずに布団に入った。
「お客さん、時間ですよ」
 と起こされた。よく眠った。昨夜、朝八時迄ですよと言われたのを思い出した。
 宿を出て魚河岸の方へ行った。宿の女が、そこに漁師や魚屋相手の安い飯屋があると教えてくれたのだ。安いと言ったのは親切心からであると思った。魚市場に並行してバラック建の食堂が四、五軒並んでいる。うどん蕎麦だけの店、おでん専門の店が一軒づつ、あとはご飯物の店である。どの店の前に立ってもよい匂いが流れ出て鼻を突く。値段が安いためか、魚関係以外の商売をすると思われる人間も入っている。空の腹がグウッと鳴った。
 中程のご飲物の店に入る。のれんを下げてあるだけで戸はない。四、五人の客が居る。十人程坐れる広さである。調理場をカギ型に囲んでカウンターがあり、前に円椅子が置いてある。壁に、天丼、親子丼、カツ井、ライスカレー等と品名と値段を書いた短冊が画鋲で貼ってある。食堂で食べるのは初めてであり、それに、これまで宮城刑務所でライスカレーを食べたことがあるだけで、他は食べたことがない。どれも食べて見たいと思うが、所持金は二円五十銭残っているだけだ。二十銭の天丼を注文する。
 揚げ立ての、海老一尾をころもで包んだのと、白身の魚となすの三通りの天ぷらを、丼の白い熱いご飯の上に載せタレの掛かった天丼は、三口食べてから暫く美味しいと言う実感が湧いて来た。この味は、飯場で何時も、押さえられ急き立てられながら食べたのと違い、自分で金を払い、客としてゆっくり食べる解放感が感じさせている味であった。
 しかし、満足感も一時のものである。金の無くならないうちに仕事を探さなければならない。人夫募集の看板は監獄部屋で懲りたので、市内での働き口を探して歩いたが、手にこれと言った職も無く、身許保証人とて無い清吉には、仲々雇ってくれる所も見つからず又同じ宿に泊まった。もう明日泊まる金も足りなくなった。明日こそ仕事を見つけねば野宿せねばならないと気持ちが苛立って来る。
 朝は、例の食堂で十銭のライスカレーで済ませ、昼はパンで我慢した。運送屋、鍛冶屋等頼んで見たが、汚れた風体と保証人が無いことで断られた。夕方近くなんとなく市場付近に足が向く。夕方の荷揚げで浜は活気がある。その活気に引かれたのかも知れない。忙しく立ち廻っている人々を見ると妬ましさを覚えてくる。
 俺は何処まで運が悪いのか、と思いながら、その人込みの中に入って行った。と、前を歩いている中年の男の上衣の右ポケットに札らしい物がチラッと見えた。清吉は、これから自分がしようとしていることに対する善し悪しの判断など全然考えもせず、その男の後ろから接近して行った。夫々に目的を持って立ち廻っている人々の雑踏の中で、風呂敷包み一つ持って、汚れた風体の自分が異様な存在であることに、清吉自身勿論気付いていない。前の男に触れそうになるまで接近して右指先をポケットに入れ、札と思った紙を抜き取った。しまった、札ではないと気付いたとき、後ろから
「もうすこし上手にやれ」
 と言いながら手首を掴まれた。体がぷるぷる震えて来るのをどうすることも出来ない。手首を掴んだ鳥打ち帽子の男は、清吉の手から紙切れを取って
「小切手だ」
 と言う。前の男が振り向いて立ち止まったのに
「今この男が、あんたのポケットから抜き取ったのだ」
 と言って小切手を示す。男は、ポケットに手をやり無いことに気付くと
「この野郎」
 と叫んで殴り掛かろうとするのを、捕まえた男が
「まあ、被害が無かったんだから」
 と言って遮り
「交番まで一緒に来て下さい」
 と言う。捕まえた男は刑事だったのだ。
 この窃盗事件で、釧路区裁判所で懲役十月に処せられた。大正九年八月のことである。
 釧路刑務所で正月を過ごした。元旦の朝、味噌汁の中に餅が二切れ入っていた。それにしても監獄部屋は酷い所だったと今更のように思い出す。刑務所の方がまだ増しだと思う。同房の五番は窃盗十三犯で六十五才と言ったが、清吉より遅れて入って来たとき
「シャバは暮らし難い、ムショの方が年寄りにはいいな」
 と眩くのを聞いた。成るほど年寄りにとって、北海道の冬は辛いだろうと思った。
 入所したとき、出所は来年六月と計算し、それまでに何か手に職を覚えたいと思い、看守に頼んだが、短期刑であることと、これと言った手職を身に付けていた訳でもないので袋貼りとか雑用が多かった。
 規則正しい毎日に日は忽ち過ぎ、出所を迎えた。服役中の賞与金で、札幌までの汽車の切符は買える。出所の一週間前から、良いことの無かった釧路を離れようと考え、看守に、札幌までの汽車賃を聞いて置いたが、出所の際交付された賞与金が切符を買ってまだ余分がある。札幌の宿賃はどのくらいだろう。釧路のような安宿が直ぐ見つかるかどうか判らない。金を遣い果たす前に住み込みで働く先を見つけねばならない。札幌には夜遅くならない内に着かねばならないと思い、駅で汽車時間を聞き翌朝発つことにした。今晩の宿は何処にしようかと考えたが、ふと、捕まる前に泊まったあの宿を思い出した。宿の女中は、掏摸で捕まったことは知らないだろうから、顔を覚えていても大丈夫だろうと考えながらその安宿に行く。幸いあの時の女中でない若い女中だったので、部屋へ案内されたとき
「去年の夏頃居た四十くらいの女中さんはまだ居ますか」
 と聞く。
「ああ、あすみさんね、あの人は暮れにやめましたよ」
 と言うのを聞いて何かほっとした気持ちになる。
 翌朝駅近くの雑貨屋で豆の入ったパンを二個買って汽車に乗り込む。根室発函館行きの長距離列車で、釧路で大分下車したがそれと同じくらいの人数が乗り込んだ。車内は混んでいたが幸い通路側に空席を一つ見つけた。前の五十がらみの口髭の男に軽く頭を下げ遠慮深げに腰を掛ける。自然に卑屈さが身に染みている自分に気付いて、立派に刑を終えて来たんだ、何も小さくなることはない、と自分に言い聞かせる。
 この汽車は、始めは海を見ながら走っていたが、暫くすると遠くの山を目指して進む。海はもう見えなくなったが、両側に広がる荒拓きの平野は、大木の切り株が一面に敷き詰めたように置かれて、丁度碁石を並べたようで見事だと思った。曾ての大森林が目に浮かぶようである。その平野の向こうの丘には、鬱蒼とした林が山裾まで続いて、その山の上の方は雲に隠れてみえない。北海道は広いなあと思いながら、右左に展開して後方に過ぎ去って行く自然を、時を忘れ飽かずに眺め続けた。
 雄大な自然に見惚れて空腹を忘れていたが、腹の虫がごろごろと鳴ったので我に返った。前の男は目を瞑ったままである。それを盗み見しながら、膝の風呂敷包みの端からパンの袋を出してパンを食べ始めた。二口めを飲み込んだとき咽につかえた。拳で胸を軽く叩いたり擦ったりして飲み下ろし、三口めからは、口の中でよく噛んで食べる。
 農家があちこちに見える駅で乗り込んで来た、三十過ぎに見える、子供を背負った男を見て、通路を隔てた席の男が
「おお、今日は何処まで」,
 と声を掛けた。
「やあ、こいつが一寸具合が悪いんで、帯広まで行って診てもらおうと思ってな、あんたは何処まで」
 と聞き返す。話掛けた男が席を立ち
「さあ座んなさい」
 と言う
「いやいいんだ」
 と言うのを
「おぶっていては大変だ掛けなさい」
 と言うと相手は
「すまんね」
 と言ってその席に腰を下ろした。
 こんな顔見知りが多いと見えて、車中はなかなか賑やかだ。
「あんたのところは兵隊で、働き手が少なくなり大変ですね」
 一つ前の席でおとこが向かいに坐った老婆に話掛けた。
「なんじゃ、お上の御奉公だからね、お陰様で食べるには心配はないんだが、植え付けから後が一番困るんじゃよ、お爺さんと二人では仲々世話が出来んでね、田面雇っても爺婆ではうまく使えんし、いっそ、田をやめてしまった方が気楽じゃと爺さんと話しているんじゃが」
「いや、何もそんな心配することはないよ、ほかの者が見捨てて置かないから、そんな取り越し苦労はしない方がいいんですよ」
「そうじゃ、取り越し苦労じゃ」
 思い直すように老婆は言い
「ほんとに取り越し苦労じゃねえ」
 と自分に言い聞かせるように付け加えた。
 帯広へ近づくに従って伐り株は減り、よく耕された黒土が縦横の縞模様を織り成している。畑に比べ田はまだ少ないようだ。遠くを見ると丁度窓のように切れた雲間から、白雪を戴いた高山がぽっかり顔を出している。清吉は、美しさに飽かず見入った。
 御影と言う小さな駅で乗った少女が、反対側の斜め後方の空席に腰を掛けた。汽車は坂を上がり始め、頂上目指して驀進している。丁度、背中を丸くして坂を駆け上がる獣のように。刻々視野が広がって行く。
 横の一画の通路側に坐った五十を過ぎたであろう女が、前に坐った老婆に
「根室の方にも孫さんがいるんですか」
 と聞いた。
「ああ、二人ね」
 女は飲み込み顔で
「お婆さんは孫さんを見たり、小遣いをくれたりするのが楽しみなんですね」
 と言う。老婆は笑いながら合点首をした。
 老婆と背中合わせに坐っていた、小造りだが、がっしりした何となく人なつっこい婆さんが、振り返ってさきの婆さんに言葉を掛けた
「何処まで行きんなさる」
「このお婆さんは函館まで行くんだそうです」女が代わりに答えた
「お一人で」
「そうなんですと」
「おおそうですかい」
 老婆の方に向かって
「わたしゃ越中の高岡までです、函館までどうか一緒に頼んます」、
 と言った
「旅は道連れと言いますからね」
 とその女である。
 汽車は羊腸として続く坂道を黒煙を吐き吐き上る。前と後ろと機関車二輛で引っ張ったり押したりしているのだが坂が可成り急なので大分進行が遅い
「ねえちゃんは何処まで行きんしゃるね」
 がっしりした婆さんが声を掛けた
「東京へ」
 はにかんだ少女の声に清吉は車内に眼を移した。
「東京へ! 一人で行かっしゃる」
「友達がいるの」
 婆さんの高い声に顔を赤らめながら少女が言った。元禄袖の着物にゴムの雨靴を履いた、上野駅へでも下りたら一見ポット出と判るこの少女を清吉は複雑な気持ちで見遣った。
「十八にもなんなさるか」
 他人事ではないと言ったような、不安気な婆さんの声である。と、婆さんの前に坐っていた小さな子供を一人連れた中年の女が、編み物の手を止めて
「いや、そんなにならない、十六位でしょう」
 と言い。
「友達の他に親戚でもあるの」
 と聞く
「ええ、あるの」
「そんならいいわね」
 と半分は婆さんに向かって言った。婆さんは安心したように
「ねえさん、このばばをどうか一緒に頼んます」
 と娘に言った。
 清吉は、車内の話しを聞くともなく聞きながら窓外の景色を眺めているうち、今までの自分の過ごして来た苦労も忘れ、ふんわりとした暖かい人々の中に自分が居ることを意識して車中を見廻した。直ぐ前は食堂車であろうか、揚げ物をする油の匂いがぷんと鼻を突いて流れて来た。
 清吉は再び眼を窓外に移した。この頃から人々は皆車外の景観に眼を奪われていた。仰げば峨々たる日高山脈の高峰は頂きにまだ白雪を被って屹然と聳え、見下ろせば起伏する一面の樹海は、遠く十勝の平野まで裾を曳いている。麓は夕陽を浴びて真っ赤に照り輝いている。大自然は居然として微動だもしない。
 洋装の若いおんなが、父らしい人の説明を聞きながら絶景にカメラを向け盛んにシャッターを切る。汽車はカーブに差しかかった。越中行きの婆さんが、窓ガラスに頬を当てて外を見ていた子供に、機関車を指して
「坊ちゃん、あそこに頭が行かっしゃるし、ほら、後ろからしっぽがござらっしゃる」
 と言ったので皆が噴き出した。婆さんは皆につられて声を立てて笑ったが、直ぐ
「随分の坂じゃな、これも人間が造ったのですわい、人間ほど偉い者はないんですわ、仲々大変なこっちゃ、土方さんは何人この下に眠って居るかわかりませんがな」
 としみじみ言った。清吉ははっとして、熱いものが頭の天辺から爪先まで突っ走ったように感じた。いままで車外の景観と、車内の互いに労り合う一つの集団の温かい雰囲気の中に、傍観者として隅っこに自分を置いたが、あの世間から隔絶された監獄部屋の仲間達の労苦、淋しく死んで行った人々のことも、知ってくれる人が居たんだと強く勇気づけられるのであった。新しくやり直そうと心に誓った。「日本八景の一狩勝峠」と書いた柱が後方へ過ぎて行った。
「もう少し時間が早いとなおいいんですがね」
 と商人風の男が言った。もうそろそろ下りになった。突然けたたましく汽笛が鳴る。「狩勝ト
ンネル」の標識がつと窓を掠める。間もなく大持勝のトンネルは真っ黒な口を開けて、とりどりの感慨に浸る人々を列車諸共奥深く吸い込んでしまった。
 窓外の暗がりが丁度スクリーンのように過去の思いを次々に写し出して行く
「何処まで行きなさる」
 突然清吉は現実に引き戻された。帯広を過ぎてからの小さな駅で乗り込んで前に坐り、それまで殆ど眠っていたような、中年の体格のよい男が声を掛けた。
「札幌まで」
「仕事は何をしていなさる」
「土工の仕事が切り揚げになったので仕事を探しに行くのです」
 と言ってはっとした。この男は監獄部屋を知っているのでないかと思った。別に逃げて来た訳でないが、監獄部屋に落ちた自分の過去に後ろめたさを感じるのだ。しかし、男は蔑んだような風もない。
「わたしは、旭川で造材業をしていて、今も、冬山造材の人夫を集めに廻って来たところだ、農家の人に冬の間働いてもらうんだが、家にも常傭いの者が、四、五人働いている。よかったら一つわしの所で働いてみないか」
 と話しを持ち掛けた。これまでの、漁場や監獄部屋の周旋人とは違って温かさを感じたが、慎重になっている清吉は
「造材の仕事ってどんなことをするんですか、やったことがないので」
 と聞く
「いや、馴れた人夫がいて、初めは色々と指導してくれるし、土工仕事をしていたと言うなら直ぐ馴れるよ」
 清吉は、車中で話し合っていたような農家の人々が働く処なら大丈夫だろうと思い
「働かして貰ってもいいが切符を札幌まで買ってしまったんで」
 言いながら切符を出してみる
「いや、滝川で乗り換えだからそこから旭川までわしが買う」
 と言ってくれた。清吉の警戒心も徐々に薄れて行く。こうして清吉は、この男鎌田仙蔵に雇われ、渡道以来三度目の職に就くこととなった。
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