釧路駅までは大分歩いた。東北地方とは違う家並である。まだ人家もそう多くはなかった。人に聞きながら駅に来た。さすがに駅付近は商店、旅館などが並んでいる。駅の横にある事務所のような家の前に看板が立っている。立ち止まって読むと、鉄道線路工夫の募集で、寝具貸与、食事付とあった。僅かの着替えしか持たない清吉は、良い条件と思った。兎に角今晩からの寝場所を見つけねばならない。入り口の硝子戸を開けて中に入った
「ごめんなさい」
 声を掛けると、部屋の硝子障子が開いて、大柄のいかつい体格の中年の男が顔を出した
「なんだね」
 太い声である
「仕事を探しているんですが、表の看板を見て来ました」
「そうか、力仕事をしたことはあるのか」
 横柄な態度である
「宮城県で百姓をして、北海道へ来て一寸漁場で働きました」
「そうか、土方仕事はきついが金になる、当分飯場暮らしになるがいいか」
 漁場をやめた理由を聞かれたらどう言おうかと、色々考えていたが、それを聞かれなかったのでホットする
「はい、辛抱します」
「よし、それでは雇ってやるからそっちで待っておれ」
 鍵型になった土間の奥を顎でしやくって言った。それまで気付かなかったが、土間の右手の奥の方に長い木の腰掛けが置いてあり、二人の男が腰掛けているのが分かった。奥へ入りその椅子の反対端に腰を下ろした。先客の二人は無表情で清吉を見ているので、二人に軽く頭を下げた。一人は四十近く見え、もう一人は清吉と同じくらいに見えた。
 年配の男が声をかけた
「郷里は何処かね」
「宮城県です」
「何時北海道へ来たね」
「二、三か月前釧路に来ました」
 何処の誰とも知らぬ男にくどくどといきさつを話す必要もない、また、億劫になっていた。
 一時間も経った頃、入り口で「おい迎えに来たぞ」と大声がする。家の中から「おおご苦労さん」と応え、さっきの大男が三人の待っている土間に廻って来た
「待たせたな、出発するぞ」
 相変わらず横柄な態度である。それに気押されたように三人が立ち上がって戸外に出た。馬車が一台停めてある。迎えの男が馭者の位置につき事務所の男も乗る。ゴトゴトと鉄輪を嵌めた車輪の音が腹に響く。尻が痛くなったので、右、左に動いて体の重心を変える。
 町を離れて大分山に近づいた所で、山裾に宿舎らしいバラック建が四棟くらい見える。新参の三人は別れ別れに各宿舎に入ることになった。清吉は真ん中の宿舎である。
 建物は、漁場の飯場と似た建て方であるが、飯場の端にある入り口を入ると左側に「係員室」と札の掛かった一室があり、右側が土工夫達の起居する部屋である。真ん中の土間の通路の中央に大型の薪ストーブが一個据えつけてある。夕方で仕事が終わったと見え、飯場の中はむっとする男の臭いで一杯である。清吉が異様に思ったのは、土工達が皆赤いケットの腰巻きをして地下足袋を履いていること、更に、係員室の前には、三尺ほどの棒を持った屈強の男が土工達を監視するように突っ立って見張っていることであった。
 一つの空いた席を指して、お前の場所だと係員が言った。それから風呂敷包みを持って係員室に連れて行かれる。中には三人の男が居てその内の頭と思われる男が
「俺は世話役だ、これからお前の面倒を見るが、規則を守って働くようにしてくれ、此処で働く間はズボンは履かれない。組で支給するケットを腰に巻くことになっている。地下足袋は一足目は支給する、あとは自弁だ、日用品は組で纏めて買い清算して賃金から差し引く」
 と心得を説明し
「此処では世話役の指示に従うこと、もし従わない者があるときは制裁を受けることがあるから注意するように」
 と言った。清吉は、これは刑務所に入った時に言われたのと似ているなど思って、嫌な感じがする。そして、係員が持つ棒がいやに気になった。荷物の風呂敷包みは、手拭いだけ渡され、財布も、金額を帳面に控えて預けさせられた。その場でズボンを脱ぎ赤ゲットに替える。自身でも、自分が変わったように思えた。初めて着けた赤ゲットが脚に纏わりつくようで具合が悪い。
 部屋に戻り自分の席に座る。右隣の髭の濃い三十くらいに見える男が、清吉が横に坐ると
「監獄部屋は初めてか」
 と声を掛けた。ギョッとした顔つきで見返す清吉を見て
「そうだと思った、病気をしないよう頑張るんだな」
 と言う。その言葉の内に、同じ境遇に堕ちて来た者に対する同情のようなものを感じた。この男は悪い奴ではなさそうだと思ったが、いや、気をゆるさないことだと自分に言い聞かせた。
 窓際に薄い布団一枚と毛布が二枚畳んで重ねてあり、その上に枕が乗せてある。土間の長い飯台の上に飯櫃が三つと、水が一斗も入るくらいの深さのある円い缶に針金の手の付いた容器に、味噌汁が入ったのが二個運ばれて来た。各飯場から交替で炊事当番が四人づつ出て運ぷらしい。それに、浅い木の箱に厚く切った沢庵が二箱ある。当番が、飯台の両側に丼に飯、アルミニューム碗に味噌汁を盛り分ける。丼の片隅に沢庵が二切れつけてある。
 並べ終わると「飯だ」と合図が掛る。両側の渡部屋から各自の前の長椅子に坐って食べ始める。飯は麦飯で清吉には食べ慣れていた。汁の実は皮のままぶった切にした馬鈴薯である。これも刑務所で食べている。
 髭の男が両手を合わせてから箸を取ったのを見た。昼抜きにしていた清吉は、宛てがわれた分を全部食べた。働いたら一杯では足りないだろうと思う。食事が終わると当番が食缶などを炊事へ返し、食器を飯場の奥にある流し場で洗い壁に取り付けた食器棚に納めるのである。
 清吉は、飯場内の仕来りを覚えようと一々それらを視察しているが、係員室の前で立ったり腰掛けたりして土工夫達の方に気を配っている係員が気になる。就寝は八時と言うことだが時計はない。皆が早々に布団を敷き出す。髭の男が、頭を互い違いにするのだと教えてくれた。
 秋の気配が見え始めた釧路は、清吉にとって二枚の毛布は多いとは思われない。冬もこのままだろうかとこの先が心配になる。それにしてもどうして赤ゲットを腰に巻いた格好で働かせるのだろう。働き難いことは判り切っている。それを問い掛けるにも、まだ入ったばかりで他人を信用していない。それに例の監視している係員も気になる。
 いつの間にか眠ったのだろう「起床」の怒鳴り声に目を覚ました。また刑務所を思い出した。隣の「髭」は、もう布団と毛布を壁の方に畳んでいる。他の者も、先を争うように身支度をする。何かうしろから急き立てられる感じである。身支度が終わると、土間にある地下足袋を履いて銘々が立つ。清吉もこれに倣って立つ。皆が揃わない内に「点呼」と大声がし、棒を右手に握った、がっしりした体格の係員が飯場の入口に立つ。土間の両側に整列し終わると「番号」と怒鳴る。清吉の列の入口側の男が「一」と叫び、あとは順に番号を言う。反対側の入口が三十で終わった。これでこの飯場は三十人と判った。棒を持った係員が清吉に近付いて来た。びくっとする。しかし、「髭」に
「お前この新人と相棒になって教えてやれ」
 と言った。清吉はほっとして「髭」に
「宜しく頼みます」
 と言って頭を下げた。他の者から「髭」と愛称されているこの男と相棒になってよかったと何となく思う。一晩一緒に横に寝ていて、意地悪な人間でないらしいと感じていた。
 朝食は、大根のきざんだのが入った味噌汁と沢庵二切れ、丼一杯の麦飯である。食事は漁場の方が良かったと思う。他の者の食事の早いのに驚く。食事の間も棒を持った係員は、入口に突っ立って睨つけるように皆を見ている。監視しているなと思い、飯に汁を掛けて流し込む。
 約三十分の休憩がある。「髭」が
「便所へ行って置けよ」
 と言って自分も便所に行く。便所は流し場の更に奥にあった。飯場の出入り口は一箇所で、出入りは、棒を持った係員の前を嫌でも通らねばならないようになっている。後で判ったのだが逃亡を防ぐためである。そう言えば赤ゲットの腰巻もそのためであった。
「現場行き準備」と号令が掛る。気忙しく飯場の外へ出る。順番が決まっているのか手際良く二列に横隊に並ぶ。「髭」が「俺の後らに並べ」と言う。
 今朝から怒鳴り散らしている棒を持った係員を見ながら近くの男が「棒頭の奴、威張りやがって」と吐き捨てるように呟いたのをちらっと聞いた。
 棒頭が「番号」と怒鳴る。刑務所での看守の号令より荒々しい。前の「髭」は五番だ。番号を掛ける「髭」の声は、どっしりと重みがあった。清吉は「髭」に対する信頼感が湧いてくるのを覚えた。
 他の棟の飯場からも同様の隊列が出来、各飯場毎に間隔を保って歩き始める。腰から下にケットを巻きつけた異様な隊列は、それでも何か形が整った感じである。
 現場は、山の上方に向かってレールを敷く道床を造るのだ。両側に伐採された大木や切り落とされた枝が重なって続いている。燃料に不自由しないだろうと思う。今は、此処で削り取った土を山裾の低地にまでトロッコで運ぶ作業である。レールが上場から低地まで三条に敷いてある。各飯場毎に一箇所づつ受け持つのだ。
 土取り場で、鶴嘴で山を崩してトロッコに積み、これを二人で平地は押し、下りは後部両側に乗って走るのだ。走るときが注意を要する。トロッコの車台後方に棒を差し込む穴があり、これに差し込んだ棒の上方を後らに引くと、下方の先端が車輪に接してブレーキが掛る仕組みになっている。その操作の呼吸が肝心で、遅く走ると怠けていると見られ棒頭の棒が飛ぶのである。と「髭」が教えてくれた。低地の谷の方に着くと、先ず車台枠を上に引上げて外し、ブレーキ棒を抜いてこれを片側の車台とレールの間に差し込んで極子にして持ち上げ谷の方へ傾けて土砂を谷へ落とすのだ。この時が一番力が要るのである。
 一つの軌条にトロッコが十台づつ配置され、各組に崩し方が十人づつ居り、トロッコにスコップで土砂を積み込む、これも馴れない者には重労働である。昼食まで休憩はない。
 十台のトロッコが一つの軌条を動くので、先頭が止まれば後続車も動けない、土工達はこれを旨く利用し、先頭車の土工が小便に行くと、後続車の土工達も、一斉に小便に行き一息入れるのである。棒頭もそのようなとき、胡散臭そうに目を放さないが、一斉に用を足したほうが能率がよいと思うのか別に文句は言わない。だが大便のときは皆一斉にする訳にも行かないので、棒頭が側に立って急ぎ立てるので、土工は出動前に済ますようにするのだが、中々うまく行かないのである。
 清吉は、農家の仕事は経験があるが、土工仕事は始めてである。頭からしきりに汗が垂れ落ちるのを首に縛りつけた手拭いで拭く。「髭」が「鉢巻きをすれ」と教えてくれた。
 昼食は宿舎に帰ってする。相変わらず汁と沢庵である。少しでも休憩を多く取ろうとする者は、汁を掛けて流し込み、早く済ませて体を横にする。一時間の休憩と言うが誰も時計がある訳でない。持っている者も入ったとき事務所に預けたのだ。
 作業用意の号令が掛る。寝ていた者も跳ね起きて令外に二列に並ぶ。番号を掛け、人数を確かめると現場へ向かう。午後の作業は太陽が西に沈むまで続く。何十回となく同じ作業を繰り返すので、力の入れ所と、抜く所の呼吸が判ってきたようだが酷く疲れた。
 飯場に帰ると、若いのに頭の禿げ上がった男が「くたくただ」と言って倒れるように横になる。近くで「おいぼっちゃん、炊事当番だぞ」と声を掛けると「ぼっちゃんには大儀そうに体を起こして他の当番と一緒に食缶を担ぐ棒を持って外に出て行った。夕食は、例のジャガイモの入った味噌汁の中に鮭の崩れかかった切り身が一つ入っているだけで、沢庵二切れは変わらない。清吉は、漁場で食べた、生きのよい魚のふんだんに入った味噌汁を思い出した。とてもその比ではないが、空腹は容赦無く受け入れる。
 食事が済むと、テーブルの上に吊り下げたランプの内一個と、便所の前通路のランプ一個を残して消される。皆が夫々毛布にくるまる。人里離れた山裾の飯場を闇が重く押し包む。
 ひと月程過ぎた秋の色も深まった頃、隣に寝ていた「ぼっちゃん」が目に見えて弱って来た。作業中も動作が鈍い。何回となく尻や背に棒頭の棒を食らいながら肩で息をしていたが、とうとう寝込んでしまった。「髭」が「ぼっちゃん」の額に手を当て
「ひでえ熱だ」
 と言いながら流しに行き、洗面器に水を汲んで来て手拭いを絞り額に載せた。「ぼっちゃん」は弱々しい目を「髭」に向けた。感謝の気持ちだと清吉は思った。何もしない自分が不人情のような気がしてならなかった。「ぼっちゃん」の顔がむくんでいるのが判る「髭」が事務所に行き、間もなく戻って来て
「アスピリンよりないとはひどいな」
 と眩く。清吉が
「水を汲んで来るべか」
 と聞くと、一寸考える風で
「うん汲んで来てくれ」
 と言う。清吉はその薬が何に効くのか判らなかったが、汁椀に水を汲んで来て渡す。「髭」が
「熱冷ましだが飲んで見るか」
 と聞き「ぼっちゃん」の頷くのを見て、包みを開き口に入れてやり水を飲ませた。清吉は「ぼ
っちゃん」が死ぬのでないかと不安になって来た。
 翌朝食事の時、清吉は「ぼっちゃん」に飯丼に沢庵二切れを載せ、それと汁椀を枕許に置いてやる。そして急いで食事を済ました。
 棒頭が寄って来て「ぼっちゃん」の様子を見て
「怠けやがって」
 と棒を振り上げた。その時
「一寸借った」
 と声が掛かった。「髭」である。棒頭は、振り上げた棒を横に構え直すと,
「なにい!」
 と「髭」に向かってきっとなる。
「殴れば死ぬぜ、すりゃあ殺人罪になるぜ」
 と「髭」が言うと一瞬たじろぎ、土方一同の敵意に満ちた目を見渡すと
「仕事だ、早く並べ」
 と怒鳴り入口の方へ引き揚げた。清吉はほっとした。「髭」は良い人間なんだと思った。
 夕方仕事を終えて飯場に帰えると「ぼっちゃん」が衰弱した笑顔で迎える。手拭いの入った洗面器の水も温んでいる。直ぐ水を替え、手拭いを絞って額に載せてやる
「済まないな、これも、ぼっちゃん育ちで甘えた罰だ」
 ぽつんと「ぼっちゃん」が言う
「元気を出して、な」
 と清吉は労るように言った。
 翌朝「起床」の怒声に目を覚まし、毛布を片付けながら「ぼっちゃん」の顔から血の気の引いているのに気付き
「死んだんでないべか」
 と「髭」に言うと「髭」も側に寄り
「駄目だな」
 と言い
「死んでしまったぜ」
 と入口の棒頭に声を掛ける。駆け寄って来た棒頭は顔を覗き込み
「馬鹿野郎、世話を焼かせやがって」
 と吐き捨てるように言って事務室の方に行き、間もなく引き返して来て清吉と、皆が「青」と呼んでいる男と二人に居残りを命じた。
 清吉は、漁場で解雇されたときのことを思い出し、飛んだ言い掛かりをつけられるのでないかと落ち着かない。
 土工夫達が現場へ行って大分してから警官が自転車で来て死体を見て帰って行った。棒頭が二人を炊事の棟続きになっている倉庫に連れて行き、中にある筵一枚に縄、それから棒にカマスを縛りつけた荒拵えの担架を飯場に運ばせた。そして、棒の先で死体に被せた毛布を撥ね除けると、上半身は裸でケットを腰下に巻いた姿が現れる。「ケットを取れ」と命じられ二人は言われた通りにする。死斑の出来た下帯一本の姿が痛々しい。
「筵で包め」
 と命じる。清吉は、口の中で南無阿弥陀仏を唱えながら、顔を跨くようにして両肩を持ち上げ「青」は両足首を持って横に拡げた筵に移す。そして体を筵で巻き二箇所を縄で縛った。
 死体とスコップと鶴嘴を載せた担架を二人で担ぎ、棒頭に尾いて行く。作業現場へ行く途中から右に十メートル程入った所に、立ち木を伐り開いた場所がある。五つばかりの土盛りがあり棒を立ててあるが横になったり倒れているものもある。清吉は、線香一本も上げて貰えず此処に埋められるのかと「ぼっちゃん」が可哀相に思う。
 母が死んだときは役場に届けて葬式したが、此処ではそんな必要はないのかなと思いながら、土盛りの上に近くの木の枝を折って立て手を合わせた。埋葬に使った用具を元に戻して現場に行く。棒頭の監視付である。
 現場で同僚の作業に加わってから、言い掛かりを付けられなくて良かったとほっとする。
 二、三日過ぎてから昼食に戻ったとき、飯場に警官が一人来ている。飯の盛り付けを待っている「髭」の所へ棒頭と共に近寄って来た。警官は片手に便箋を持っている。
「おい、これお前が書いたのか」
 と聞く「髭」は、出し抜けに聞かれたので、一応便箋を見てから、布団の下に手をやり、無いのを確かめると
「そうです」
 と言う。不在中に捜し出されたことが判ったのであろう。
「一寸聞きたい事があるから本署まで来てくれ」
 と警官が言うと「髭」は、弁解一つせず頷く。
 一体便箋に何が書いてあったのだろう。それにしても、一言の理由も聞き返さない「髭」は、警官に引っ張られるような事でもしたのであろうか、清吉にはさっぱり判らない。「髭」はそんな悪い男では無いと思う。
 事務所でケットをズボンに履き替え風呂敷包み一つ持った「髭」が心配顔で見守っている清音の側を通るとき、小声で
「体に気を付けて早く出るようにすれ」
 と言った、清吉は無言で頷く。皆に目で別れを告げて「髭」は警官と一緒に立ち去った。後ろ姿を見ていた棒頭が、ざまあ見ろと言った顔つきでべっと唾をはいた。
 清吉にとって、北海道で初めての冬がやって来た。股引きとシャツが支給されたが、勿論給料から差し引かれるのだ。それだけでは寒いので綿入れの刺子を買った。他の者は北海道暮らしが多いと見え、夫々冬着を持っている。いや、「髭」のあとに入った、二十台の始めと見える年恰好の男も内地から流れて来たと見え、やはり刺子を買った。一つ一つの値段は告げられず「五円下がり(赤字のこと)だぞ」と言われただけである。
 雪が来て、飯場を挙げて一里程離れたトンネル工事の現場に移動した。同じ組の請負である。入口から枕木で支柱を立て、横木を渡してカスガイで止め、横や天井の土壁と支柱との間には枕木を差し込んで土の崩落を防いでいるが、土の重みで折れ皹が入っている枕木もある。天井や横壁が今にも崩れ落ちて来るような不安を感じたが、馴れるに従いそれも薄れて来た。それでも、時折天井から石が落ちて来るとひやっとすることはある。トンネル内は軌条が二条数かれており、トロッコが行き交うようになっている。
 現場には技術屋が二人居て、作業の進め方など指示しているが、この者には棒頭も頭が上がらずペコペコしている。親会社の者であろうか。しかし、土方が棒で殴られるのを見ても止めようとしなところを見ると、同じ穴のむじなだなと清吉は思う。
 土砂をトンネルの外に運び出したときは寒さを身に感じるが、トンネル内は案外暖かに感じた。早く太陽に照らされながら作業するようにならないものかと神仏に祈った。神仏と言っても、別にはっきりした信仰心がある訳でない清吉にとって、神様とは村の鎮守の森の社の中にいなさると言う、人間を守って下さる有り難い霊のことであり、仏とは、村のお寺に安置されている仏像の中に宿っていて、人間を教え導き助けて下さる有り難い目に見えない偉いお方であった。監獄部屋に入るまでは、神仏を心に念じたことはなかったが、北海道に来て、人間は、自分の力ではどうにもならない、巡り会わせと言う、目に見えない力に引っ張られているような気がして、人間界を離れた大きな力に頼ろうと言う気持ちになったのであろう。
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