釧路の港に着いたとき、川の入り口が港になっているのだとわかった。岸壁に上がってもまだ体が揺れる感じだ。東北と違って釧路は、七月と言うのに霧がかかって肌寒く感じる。風呂敷から合羽を出して着る。
 船から上がったとき船員が甲板に出て「頑張れよ」と声を掛けてくれたのが心を和ませ嬉しかった。
 漁場は、港から海沿いの道路を小一時間も歩いた浜辺にあった。
「お前達の寝起きするところは此処だ」
 引率者の一人が言う。大きな、だだっ広い建物である。清吉は、俺の田舎の草葺の家と違って大きいなと思った。入り口に川田漁業部番屋と書いた厚い板が掛けてあった。入り口の両側の板壁沿いに流木であろうかぎっしり積んである。
 中は、漁夫の寝室といっても仕切ってある訳で無く、土間の通路を挟んで両側に高く床板を張り筵を敷いてあるだけだ。両側で五十人分くらいの布団が並べられる広さである。土間の二箇所に鉄板の新ストーブが置いてある。今でも使っているらしく焚き口の前に新しい灰が落ちている。この部屋を挟んで、もう一方の片側が食堂で真ん中に長テーブルを繋いで並べてあり、両側に木の丸椅子が置いてある。食堂の隣が炊事場でその隣が事務室と倉庫になっている。後で気付いたのだが、更にその続きに何組かの夫婦者の宿舎があり、女たちは炊事を担当していた。
 漁夫は、古参が三十人程居り、新参者を前に言葉が荒い。漁場特有の風習なのか或いは、古参の威勢を示す為なのか、始めの内は清吉には分からなかったが日が立つにつれ、荒っぽいのは浜言葉で、悪い人間は居ないようだと思った。
 朝、暗い内に起きて、大きな、尻まで廻るゴム前掛けをし、長靴を履いて、大きな、魚を汲み入れる船に乗り、発動機船に曳かれて沖の定置網に行き船頭の指揮で網を手繰り、一方に魚を追い寄せタモで船に掬い揚げる。中々の力仕事であるが、船底に跳ねる魚を見ると体内に活力が湧くのを覚える。
 ひと月が過ぎ勘定日が来た。寝具と丹前の借り賃、食費、日用品代、前借りの旅費の分割払いを差し引くと、手取りは僅かであった。募集に応じたときの話しでは、大魚のときは歩増しも貰えるとのことだったが話しは違った。大魚とはどのような状態のときのことを言うのか清吉には分からない。何時も魚は沢山漁獲されているのだが。
 無口の清吉は、親しい友人は出来ていなかった。寝床が隣の、林と言う清吉より二つ三つ年上に見える男が、その隣の男と何か話しをしているのを度々見ていた。或る夜、床に入ってから林が話掛けてきた
「どうだ、もっと金になる仕事に変わらないか、此処は余り安過ぎる。親方ばかり儲けている、どうだ」
「俺は北海道は初めてで、様子も良く分からないし、もう少し辛抱して見るよ」
 と清吉は返事した。早く纏まった金を作って、行くゆくは何か商売をしようと考えていた清音なので、金の多く入る口があればその方が良いのだが、この林と言う男の話しを信用して良いものかどうか一寸不安であった。
 その翌日昼食が済んだ頃、帳場に事務室に来るよう呼ばれた。何だろうと思い事務室へ行くと、帳場は
「杉本、お前賃金が安いと文句を言っているそうだな、この仕事が嫌なら何時でも辞めて他へ行っていいぞ、お前等に、働き以上の金を払うところがあると思っているのか」
 と怒鳴りつけた。清吉はびっくりして
「俺辞める気なぞないし、誰ともそんな相談したことはないです」
 とおどおどしながら弁解した。ふと、合羽事件のときも駐在所の旦那にこれに似た身に覚えの無いことを言われたのを思い出した。
「ちゃんと聞いている者もいるんだ、今日限りで辞めてもらう、明日清算してやるから今晩限りで出て行ってもらう、話しはそれだけだ、忙しいからもういい」
 こんな話しがあるだろうか、そんなことは嘘だ、今まで通り使ってくれと頼もうかと思ったが、帳場の態度はとりつく島もない。ええ、ままよ、北海道は広いんだ、と心につぷやき事務室を出た。
 飯場へ戻ると、林やその隣の男がちらっと清吉を見たが何も言わない。清吉は、浜の魚粕干し場に行き作業を始めた。此処も今日限りかと思うと、魚だけは生きが良くてうまかったのが思い返された。
 夕食を済ませ自分の席へ戻って枕元の棚の上の私物を整理して風呂敷に包んだ。林に
「俺やめさせられた」
 と言うと
「お前もか、俺は、お前がいらんことを帳場に話したと思っていた」
  と林は顔を和らげる
「どうだ一緒に働かないか」
 と誘ったが、釧路の町へ行けば何か仕事があるだろうと思っていた清吉は
「ああ有り難う、町へ出て探してみる」
 と体よく断わる。林はそれ以上訴わなかった。
 翌朝食事だけは食べさせて貰い、事務室で三人が帳場から精算書と残金を受け取った。どうにか二、三日過ごせるだろう。それにしても色々と差し引かれたものだと清吉は思った。他の二人は「これぽっちしか揚げ金がないのか」「なあんだ」と交々嫌味を言って事務室を出る。清音は帳場に「お世話になりました」と頭を下げた。
 町へ出てから清吉は
「俺駅へ行って見るから」
 と二人に言った。郷里を出るとき、駅で募集の貼り紙を見たのを思い出し駅に行けば仕事口が見つかるような気がしたのと、林等と早く別れたい気持ちとからであった。
「そうか、それじゃあ元気でやれよ」
 と林は言った。今度は陸で働こうと清吉は思った。
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