清吉には、はっきりした記憶とて無かった。母の傍らに座って、坊さんの背中に掛けている縞麗なたすきのようなものを見つめていたような記憶が、何かぼんやりと思い出されるだけであった。五才の春だったと言う。父は、母と清吉を残して病死した。僅かの田畑も借金に取られ、家さえも残してくれなかった。父の本家で旧い頃使っており今は空いている納屋が母子の住居となった。病身の母は、それでも他家へ農事の手伝いに行き、どうやら小学校六年を清吉は卒業できた。
「おっかあ俺働いて孝行するよ」
 病躯を押して働いている母を見ている清吉は卒業式を終えた日母にこう言った。
 学校の成績は良くなかったが、体は丈夫であった。清吉が農家へ奉公し母を助けるようになってからは、暮らし向きも少しづつ良くなって行ったが、少年期を過ぎ青年らしさが体や態度に現れ始めると共に、母は一年一年と衰えを見せて来た。食事の支度が精々であった。清吉の成長を見て安心し気の緩みが出た為かも知れない
「おっかあ、俺が嫁を取るまで生きておれよ」
 母の衰えを見て清吉は母を慰め力つけるのであった。しかし、とうとう清吉が十八才の秋、母は床に就いてしまった。未だ十分の金取りも出来ない清吉にとって、高価な薬はとても手が届かなかった
「おっかあ、すまないなあ」
 日毎に痩せ衰えて行く母の手をとりながら、清吉は悲しげに言うのであった
「いいんだよ、お前がこんなに大きくなってくれたのだし、わしはこれでいいんだよ」
 母の弱々しい声を聞くと清吉は、自分の不甲斐なさがなおさら身に染みて、滲み出る涙を隠すようにそっと顔を背けた。
 翌年春母はとうとうこの世を去った。「とうとう一人ぽっちになってしまった」と自分に言い聞かせる。今までも、俺は一人ぽっちになるのでないかとふと考えたこともあったが、それが現実となってしまった。木箱で間に合わせた形ばかりの仏壇の、新しい位牌に揺らぐ線香の煙りを見つめながら、父が死んだときも矢張りこんな情景だったなと、微かな記憶を蘇らせるのであった。
 納骨が済むと清吉は父の本家に引き移った。そうするより他に生活する方法がなかったのだ。本家と言っても清吉は作男と同じであった。いや、本家と言うことが一層肩身の狭い思いをさせるのである。早く一人立ちしなけれぱならないと思うのだが、貧しい東北の寒村では、毎日を引きずって進むより仕方無かった。
 このようにして三年を過ごしたある日、隣部落の農家へ手伝いに行ったが、帰りに雨が降ったので、その家の使用人がこれを着て行けと言うまま、合羽を借りて帰ったが返すのを二日ほど遅れていたところ、これが盗品だったので清吉が犯人として捕まった。
「当時は、今と違って、疑いを掛けられると言いたいことも言えない時代でしたので、私に貸した人も、関わり合いになるのを嫌がって本当のことを言ってくれず、田舎者の私は弁解の術もなく、とうとう裁判所で一回の即決裁判で懲役五月の刑を受けたのです」
 と清吉は述懐する。
 宮城監獄で刑を終え出所したが清吉は残念でたまらず、合羽を貸してくれた男を尋ねたがもうその農家にはいなかった。
 田舎で、一度監獄に入ったと言うことになれば、引き続き其処に生活する訳に行かず、本家には「北海道に行き一人前になる」と言い置いて住み慣れた故郷を後にした。出発のとき隠れるようにして父母の墓に参った。清吉は、ただ涙を流して手を合わせた。大正七年の春であった。
 その頃、東北の農村に溢れた貧しい人々は北海道へ流れて行った。清吉は、北海道の何処と言った目当ての場所があった訳ではなかったが、とにかく、函館までの旅費はどうやらあるので函館まで行くことにした。
 当時北海道に渡れば働き場所は幾らでもあると言う風評が流れていたのである。町の駅に来たとき、たまたま釧路の漁場で漁夫を募集している貼り紙を見て、係員の泊まっている宿へ行き話を聞いた。清吉は、あの事件以来自分以外の人間を信用しなくなっていた。良く言えば用心深くなったのである。
 係員の話しでは、釧路に着くまでの旅費は一時立て替えて毎月の賃金から分割して返済すること、番屋で寝起きし、食費や寝具の貸し料を差し引くことであったが、それでも手取りは、こちらの農家の手伝いで得るよりも良い勘定になった。清吉はこの募集に応じることにした。
 未だ見ぬ北海道、それに旅費を前借り出来る働き口が見つかったことで、未来に明るい気持ちを抱いたとしても無理はなかったであろう。翌日駅で他の応募者四人と共に、係員から八戸までの切符を渡された。八戸で他の土地からの応募者と合流して釧路へ直行すると言うことである。清吉はそれまで未だ海を見たことは無く、船と言うものは勿論学校の教科書で見ただけである。北海道まで渡って行く船は大きいのだろうなと思った。他の応募者も大体同じ年頃のようだが、あまり他の者と話しはしない。皆初めての北海道に対する不安が心の底にあるためであろうか。だが、八戸までの車中で次第に打ち解けて来たようだ。同じ不安に立ち向かって行くと言う、同じ運命がそうさせたのかも知れない。清吉だけは口数が少ない。俺は前科者だと言う暗い影が心にあったためだ。他人に知られたくないと言う気持ちが口を重くする。八戸では二十人が集まった。引率者が三名になった。船は、清吉の頭にあった汽船では無く発動機漁船であった。操舵室の前後に船倉があり、それに十人づつ分けられて入り込む。清吉は前の船倉である。床に筵が敷いてあり布団は無い。「荷物並みだな」と誰かが言う。それでも引率者と思われる一人が船倉に下りて来て皆に「窮屈だが着くまで我慢してくれ」と言って引き返して行った。間もなくエンジンの音が船倉に響き渡る。小声では話しも聞こえない。それだけではない、からだ中が規則正しい律動に揺さぶられる。清吉は自分の寝場所を決め甲板に上がった。船は海洋に出て陸地を見ながら走っている。幸いに風も無く晴れていてうねりも大きくない。故郷が段々遠のいて行くのを感じる。後甲板にも二、三人が陸地の方を無言で眺めている。皆同じ思いであろうか。陸地が段々遠ざかって行く。船が進路を変えているのであろう。風が出て来た。清吉は船倉へ下りた。揺れが大きくなったのが判る。船と共に持ち上げられた体が、今度は底へ沈み込んで行く感じである。寝場所を壁際に移し、龍骨に身を凭せ掛けた。目をつむって、近くに固まっている者立ちの話しを聞いているうち、いつの間にか眠ってしまった。ギギギィーと言う船体の軋む音に目を覚ました。他の者は、それぞれ思いおもいの形で横になっている。目だけつむっているのか、芯から眠っているのか分からない。ギギギィーと軋むと、どすんと波にぶっつかる音が腹の中まで響く。また目をつむる。
 甲板への梯子の足音に目を覚ました。小便をしに梯子を上り甲板へ出た。朝だ、うねりも納まったようだ、よく眠れたとも思わないが、わりに頭がすっきりしている。操舵室の下の船室から引率者の一人が顔を出し清吉に「飯だ、皆に甲板へ上がるよう言ってくれ」と声をかけた。清吉は「うん」と相手に頷いて見せ、蓋の開いている船倉の下り口から「めしだぞ」と声をかける。皆甲板に上がって来たところを見ると船酔いした者はいないらしい。炊事係の船員が、後甲板に集まった者達に握り飯と塩鮭の焼いたのと沢庵漬の切ったのを箱折に入れて運んでくれた。急に空腹を覚えて握り飯を食べはじめる。一人に握り飯二個と塩鮭一切れ沢庵二切れだが、どれも大きいので腹の虫も納まったようだ。清吉は、これまでの食生活を思い出し、北海道では食うものは十分食えるだろうなと考えた。
 釧路に着くまでの食事は握り飯だった。食器が足りないのだろうと思った。味噌汁を飲みたいと思ったが遂にでなかった。いわしの缶詰と干しわかめが出た。お茶が無い。一升瓶二本の水を茶碗4個で廻し飲みである。これも船内のことで仕方無いのだろうと清吉は思った。誰も不平を口に出す者はない。
< 前のページ