X
 トーマス・マンは、中世の詩人ハルトマン・フォン・アウエの作品を下敷きにして、

グレゴーリウスの物語を新たに書き直そうとした。

ところが、中世ドイツ語のままでは少し手に余ったようで、ザームエル・ジンガー教授に援助を乞う。

「ハルトマン・フォン・アウエの『石の上のグレゴーリウス』は、標準ドイツ語への翻訳があります。

それがレクラム文庫に入っているのは知っていますが、ここではどうしても捜し出すことができません。

それでも、この詩を読むことが、しかも標準ドイツ語で読むことが私にとっては重要です。

というのも、中高ドイツ語は、多くの点で私にははっきりしないからです。助けてもらえるでしょうか」
1948年1月4日)

当時、マンはアメリカのカリフォルニア州 P. パリセーズに滞在中で、

当地の大学図書館からハルトマンの原本を借り、S. ジンガー教授の翻訳を参考にして、筆を進めた。


1949年の夏にドイツへ旅行する。ナチに追われて亡命して以来のドイツ訪問であった。既に16年の歳月が経っていた。


 ところでトーマス・マンは、

グレゴーリウス伝説を扱った作品『選ばれた人』(1951年)を発表してから間を置かずに、

「小説『選ばれた人』への注釈」を書いている。

「グレゴーリウス伝説に私が初めて接したのは、『ファウストゥス博士』の仕事をしていた時期だった。

私は当時、アードリアーン・レーヴァーキューンのために、創作上のモチーフを探していた、そして、

1230年に亡くなったドイツかイギリスの人で、エリマンドゥスという名の修道士が著した、

あるいはむしろ編纂した古い本『ゲスタ・ロマノールム』を読んで、中にある、いくつかの物語を調べていた」

そして、そのうちのひとつの『神の不可思議な恩寵と故教皇グレーゴルの生誕について』という

12ページ余りの物語にとても興味をそそられ、しかもその物語は、

「私の尽きない想像力に非常に大きな物語の可能性を提供してくれるように思われた。

それで私は、そのときすぐに、いつかそれを私の長編小説の主人公のために拝借し、

そこから何かを自分で作ろうと、決心した。

ただし、マンはこのとき初めてこの物語に接して着想を得たように述べているが、

そしてまた、『ファウストゥス博士の成立』(1949年)にも

「私はこの宗教伝説のさまざまな表現形式について何も知らなかったし、

とりわけハルトマン・フォン・アウエの中世高地ドイツ語の詩については、

それまでほとんど聞いたことがなかった」と書いてはいるけれども、

トーマス・マンがグレゴーリウスの物語を知った時期については、彼自身に記憶違いがあるようで、

H.ヴィスリングという研究者の言によれば、

マンは若いときにもうすでに、この物語に注目をしていたということである。

ヴィスリングは、その証拠として、マンはかつてミュンヒェン大学で、1894年から95年にかけての冬学期に、

ヘルツ教授のもとで中世文学についての講義を聞いており、そのときのマンのノートには

この物語に含まれている問題についてのメモがあり、それには、

「中世の貴族主義的な見解: ふたりの高貴な兄妹の子供の若きグレゴーリウスは、

ある漁師に育てられ、心身ともにすばらしく成長する。

それで人々は、漁師の息子がこれほど才能に恵まれたことはかつて一度もなかった」

といったことが書かれていることを挙げている。

この点については、K.シュレーターという研究者も指摘している。


前作『ファウストゥス博士』(1947年)に取り掛かったとき、

トーマス・マンはその構想が古いものであることを記憶していた。
(参照、1943年4月27日付クラウス・マン宛書簡)

ところが『グレゴーリウス』に関しては、それまで何も知らなかったという。

これはトーマス・マンの単なる思い違いを示すのか、それとも彼が忘れた風を装ったのか、

それはどちらとも判断しかねるが、しかしいずれであるにせよ、このことは、

マンが以前は漁師の息子の特異な才能または異質な存在という点にとりわけ注目していたが、

今度は、当時とは異なる側面からこの物語に関心を持った、ということを示している。

トーマス・マンは、かつてよりも厳粛でより切実な問題をこの物語の中に新たに見いだしたのであり、

そしてそれは、一言でいえば、『ファウストゥス博士』への反動であると同時に、

その延長とも言えるもの、つまり贖罪と恩寵の問題ではないかと想像される。

 つまり、作者は、『ファウストゥス博士』を書き進めている間に、

その主人公アードリアン・レーヴァーキューンに対する姿勢を、着想の時に比べ、微妙に変化させた。

そしてこの変化には、マンの関心がニーチェ像からドストイェフスキィ像へと移行したこと、

生に対する作者の愛着、そして『ゲスタ・ロマノールム』を読んだことなどが関与したと考えられる。

「現代のファウスト」アードリアンは、狂気のうちに果てるが、

その晩年の作品は、ひとりの天才的な作曲家の人間としての心の底からの叫びが、

その苦難の生涯にたいする嘆きが、芸術的にきわめて優れたものにまで高まったものである。

彼は絶望のうちにこの世を去り、キリスト教徒として神による救済を受けなかったかもしれないが、

ただ彼はこの作品によって、少なくとも、悪魔の手中から自己を解放した。


 『ファウストゥス博士』の中には、既にグレゴーリウスの物語に含まれている問題性の萌芽が見られるが、

トーマス・マンは、今度は、絶望の淵にまで、言わば地獄にまで落ちながら、それにも拘わらず

なおそこから這い上がってくる、それどころか、「神による最高の恩寵にあずかる人間」に取り掛かかった。



1952年6月29日、トーマス・マンは、ニューヨークから、空路、

アムステルダムを経由して、チューリヒへ向かう。

そして以後、二度と、アメリカ合衆国に戻ることはなかった。


マンは、チューリヒにしばし滞在の後、オーストリアやドイツの諸都市を、講演や朗読をしながら巡る。
< 前のページ