XI
トーマス・マンは、『トーニオ・クレーガー』(1903年)を発表して後、

「私は、芸術家は君主と同様に象徴的存在・代表的存在という性格を帯びている、と言いたいのです。

 ― そして、ごらんなさい! このパトスには私がいつか書くつもりでいる全く風変りな事柄への萌芽、

君主小説への萌芽『トーニオ・クレーガー』と対になるものへの萌芽があり、

この対となる作品は『大公殿下』というタイトルを帯びることになります」と書いた。
(ヴァルター・オーピツ宛、190312月5日)


マンは、『大公殿下』(1909年)を1905年から書き始めたが、

この作品を執筆中の1906年ごろ、ルーマニアに実在した詐欺師マノレスクの『回想録』から着想を得て、

1910年の1月に、結果的には「最後の作品」になる『フェーリクス・クルルの告白』の仕事に着手している。

「私は詐欺師の告白のために、収集し、メモをとり、研究していますが、

これはおそらく私のもっとも奇妙なものになるでしょう。

私はときおり、自分はここで何をひねくり出そうとしているのか、と我ながら驚いています。」
(ハインリヒ・マン宛、1910年1月10日)


 この象徴的・代表的存在ということと関連すると思われるが、作者はこの作品に着手するにあたり、

芸術と芸術家に関するモティーフを幻想的なものへと方向転換をさせた、という。

つまりマンはこの作品によって、芸術家の内面心理の問題を、

「非現実的幻想的な存在」を通して描き出そうとしたと思われる。

「もちろん、芸術と芸術家というモティーフの新しい方向転換、つまり、

非現実的で幻想的な存在形式の心理学が問題であった」
(『略伝』1930年)


 作者は、幻想的なものを表現するのに「詐欺師」という存在を利用しているが、

これは唐突な方向転換ではない。

小説家になった「トーニオ・クレーガー」は、故郷の町を訪ねたとき、そこの警察官に詐欺師と間違われ、

あれこれ尋問を受けている。

従って、マンは、前々から、「芸術家と詐欺師の類似性」を感じていた。

作者はこの『フェーリクス・クルルの告白』という作品によって、

状況に応じて「非現実的な存在に変化する詐欺師」を主人公にし、芸術家の内面心理を描き出そうとした。

しかし、このような芸術家の精神を代表させる、見掛け上の存在、表象としての存在を描く場合、

作者トーマス・マンにとっては、「生あるいは現実との関わり」はどうしても避けて通れない問題である。


 ところで、 トーマス・マンは、『フェーリクス・クルルの告白』の執筆を開始してから、

まださほど経っていない頃であるが、1911年の5月半ばにイストリア沖のブリオーニ島へ旅行した折、

グスタフ・マーラーの訃報を聞いたことなどをきっかけにある別な構想が浮かんだ。

マンはさらにヴェネツィアに渡り、リードのホテルにしばし滞在するが、

「そこで一連の奇妙な事情と印象とが寄り集まって、

私の内部に、この潟に囲まれた町の名と結び付いた標題を持つ、

あの物語への着想を芽生えさせた」(『自分のこと』1940年)という。

「この着想がやがて『ヴェニスに死す』という名前で現実化された。

私は、この短編小説は(中略)詐欺師小説の仕事に挿入するための、

迅速に片付けられるべき即興詩ぐらいに考えていた」(『略伝』)


さらに、1912年にはカーチャ夫人が、ダーヴォスのサナトーリウムに入院し、

マンも見舞がてら、そこに三週間ほど滞在するが、

その経験がまた、長編『魔の山』(1924年)のきっかけになった。


 ともかく、そのようなことで、この間、『フェーリクス・クルルの告白』の執筆は棚上げになっていたが、

1912年の夏に『ヴェニスに死す』が刊行し、秋に、カーチャ夫人がダーヴォスから戻ってくると、

トーマス・マンは『クルル』の執筆を再開する。

しかし、クルルの徴兵検査でのかの天才的な偽装が展開される第5章を書き終えたのち、再び筆を置く。

しかもこんどは「四十年」もの長い間の、ほとんど放置と言えほどの中断である。

これは尋常なことではない。

そこには当然、そうせざるを得ない決定的な理由があったはずである。



 作者トーマス・マンの弁明は、

「きわめて微妙な平衡曲芸であるクルルの回想録の調子を、長いこと確保しておくことは、

たしかに難しいことであった。この疲れを癒したいという願望が、新しい構想をなおさら助長して、

そのために1911年春に『クルル』の続行は中断された」(『略伝』)というものである。

『略伝』における発言は、「続行中止」の理由として、平衡曲芸の調子の持続の困難さを掲げているが、

これをそのまま解釈すれば、クルルの演技は、たとえそれがかれの生命を賭しての真剣なものであれ、

所詮、そのような虚構の存在のままでは、現実の存在との平衡を永遠に続けざるを得ず、

そのような空虚さを伴う継続を困難と感じた、ということになろう。


 トーマス・マンは『トーニオ・クレーガー』以来、この『フェーリクス・クルルの告白』の中断以後も、

『魔の山』にせよ、『ヨーゼフとその兄弟たち』(1943年)

あるいは『ファウストゥス博士』(1947年)にせよ、

その主要な作品においては常に「現実」との関わりをテーマにすることになる。

そしてこの「現実」は「人間的なこと」という言葉と同義になることも稀ではない。


 作品は、作品そのものの意志を持つようになり、自己発展を続けてゆくことが、

トーマス・マンの場合にはしばしばあるが、小説『フェーリクス・クルルの告白』の執筆に際しては、

少なくとも中断のや止むなきに至ったこの時点では、虚構と現実のあいだの溝を埋めて、真に中核となりえる、

ある何か実質的なものが、作者の満足のゆくような明瞭なかたちとしてはまだ現われてはいなかった、

と推察される。



 『フェーリクス・クルル』の続稿は、延々と放置されたのち、

やっと1951年の初めになって、以前に中断した箇所から書き進められた。

詐欺師の回想という、巧みに虚構と現実のバランスを取りながら世間を渡り歩いた

その体験の記述という性質からして、作家としてのトーマス・マンの技量からすれば、

それほどの時間的な断絶があっても、物語の展開の上での切れ目を

まるで感じさせないように繕うこと可能なことなのであろう。



作者トーマス・マンは、第1部に取りかかった頃の意図とは、例によって、

第2部を書き進めているうち、また第2部を未完に終らせた頃には、異なる考えに到り、

クルルの人間性の描写はこれで十分というか、中断後のフェーリクス・クルルの人格が

自分の最も描きたい性質のものになったのではあるまいか。

そしてまた、『詐欺師フェーリクス・クルルの告白』という作品は、人間存在の本質の追求という、

真の意味での内面的な問題が入ってきた後半に至って、この作品としての充足を得るようになったと思われる。

〜〜〜〜

トーマス・マンは、1954年に、チューリヒ湖畔のキルヒベルクに居を定めるが、ここが最後の住居になる。

翌年(1955年)の7月に、州立病院に入院し、翌8月に、その八十年の生涯を閉じる。死因は動脈硬化症(Arteriosklerose)。


その一年ほど前、娘のエーリカに宛てて

「『クルル』に関してさらにあれこれ考え出してゆくつもりは、少なくとも今のところはない」
(エーリカ・マン宛、1954年6月7日)

ことを書いており、他にも、この少し後に、次のように発言している。

「それで私はこのたび一巻の長編小説に拡大された『フェーリクス・クルル』の断片を、

全体の『第1部』として出版し、この冗談ごとの続きはまだ途中であるかのような振りをしています、

がその一方、これ以上のことは一語も書いていませんし、じつは私は、

自分がこの馬鹿げたものを決して終了させないであろう、ということをよく承知しているのです」
(エーミール・プレトーリウス宛、1954年9月6日)
マン夫妻

「故郷リューベック」の近郊
1955


トーマス・マンはこの年の夏
八十歳で歿す

1955, bei Lübeck
Das Photo, aus:
Klaus Schröter: Thomas Mann. rowohlts monographien Nr.93.
Rowohlt Taschenbuch Vlg., Reinbek bei Hamburg, 1964
(『トーマス・マン 略伝』、了)
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