VIII
1940年5月、ドイツ国防軍は、オランダ、ベルギー、フランスへと、侵攻する。

トーマス・マンは、BBCを通じて、『ドイツの聴取者諸君』というラジオ放送を開始する。



 トーマス・マンは、四部作の長編小説『ヨーゼフとその兄弟たち』(1943年)の

その具体的な執筆の動機について、大学のゼミナールでの講演のなかで、

これはナチスによる迫害のためアメリカに亡命してからの発言で、

第四巻『養育者ヨーゼフ』の稿に取り掛かったころと思われるが、

「『ヨーゼフ』への直接のきかけは、私に画集の序文を書いてもらいたがった、

ミュンヒェンにいる知り合いの画家から与えられました。

それはヤーコプの息子ヨーゼフの運命をきれいな図によって表現したものでした」

と述べている。

それで、家にある古い聖書をひらいて、ヨーゼフの箇所を読み直してみて、

ゲーテが『詩と真実』のなかで書いている「この自然な物語はきわめて優美であるが、

ただあまりに短すぎるように思われる、

それでそれを細部にわたってわかりやすく描写することが自分の使命だと思う」
(『自分のこと』1940年)

ということは真実であることを発見した、という。

このことには1942年末のワシントンの国会図書館での講演においても触れているが、

この偶然のきっかけを与えられたのは、

「今やすでに十五年も前のある晩に」(『ヨーゼフとその兄弟たち、ある講演』、1942年)

とあるのはマンの思い違いで、この物語の執筆の直接の動機が芽生えたのは、

これよりなお二年ほど前まで遡るようである。

というのも、マンは1925年の初めにすでに、友人のエルンスト・ベルトラムに宛てて、

次のように書いており、この書簡が、トーマス・マンが『ヨーゼフ』小説の計画について触れた、

もっとも初期のものということである。

「このやり方で私はおよそ四週間の旅に出ることになるでしょうが、私にとってとりわけエジプトが大事です。

砂漠とピラミッドとスフィンクスを一瞥してきたいと思います。そのために私はこの招待を受けたのです。

というのも、私がひそかに抱いている、まだいくらかぼんやりとしているとはいえ、

それでも確固とした計画にとって、この旅は役に立つものとなりえるからです」
(エルンスト・ベルトラム宛、1925年2月4日)


 そしてその一年後、1926年の暮れから、『ヤーコプの物語』の序章、

結局は、以後あいだに第二次大戦をはさんで、十六年余りにわたって書き続けた物語の

その全体の序章になる『冥府行』に着手する。

「再び執筆することになって、本当に嬉しい。ヨーゼフは一枚また一枚と膨らんでいる、

意義と存在、神話と現実がこの人たちにとっては絶えず絡み合っていること、

そしてヨーゼフが一種の神話的詐欺師であるということによって、何か目新らしいものであったり、

精神的に奇妙なものであったりもする」
(エーリカ・マン宛、19261223日)

1930年の2月から4月にかけて、再度エジプトへ、そしてパレスティーナへも足を伸ばす。

この年の終り頃には第一巻『ヤーコプの物語』を完成し、翌々年1932年の6月頃、

第二巻『若いヨーゼフ』を書き終えている。


1933年1月30日にアードルフ・ヒトラーがドイツの首相となった。


トーマス・マンは翌2月初めにオランダへ向けて講演旅行に出発するが、

以後は亡命生活を余儀なくされることになる。

ヨーゼフ小説の原稿はミュンヒェンの自宅に置かれたままになっていたが、

長女のエーリカが機転を利かして、押収されていた家へ入り込んで、

当時南フランスにいたマンの許に原稿を持ってきてくれたという。


 1933年の秋にチューリヒ近郊のキュスナハトに居を定め、

第三巻『エジプトのヨーゼフ』に取り掛かっていたが、そのころに自分は、

この作品によって市民的・個人的なものから離れ、典型的で神話的なものへと移行したこと、

そしてこの典型的なものと神話的ものという二つの概念は、この作品においては同一のものであること、

そして更に、この両者が同一であるという認識と人類的立場からの感情との間には関連があること、

そして、じつは、この小説においても『ブデンブローク家の人びと』の場合のようにある家族の発展史が、

それどころかある意味では、没落のそして繊細化の歴史が問題ととなっていること、

違いはただ、「この神話小説においては、家族的で市民的なものが人類的なものへと高められていて、

そしてこの作品の根底には簡略化された人類史たろうとするいわば野心があることだけ」である、

と述べている。

そして、このような意図は第一巻の序文「冥府行」を見れば、読みとってもらえるはずだと言う。
(ルイーズ・セルヴィサン宛、1935年5月23日)


 作者トーマス・マンは、ヨーゼフ小説の最後の巻を執筆中のころ、タマールの物語を書き終えて、

ヨーゼフとベンヤミーンの食卓での場面に取り掛かる前のころであるが、

「私の書斎は一応でき上がりました、そしてそこで私の思考はときおり、

もう仕上げるだけになっているヨーゼフを越えて、ある芸術家小説のことへと移ったりしています、

この小説はことによると、私のもっとも大胆でもっとも不気味な作品となるかもしれません」
(アグニス・E・マイヤー宛、1942年2月21日)

と、もうすでに『ファウストゥス博士』(1947年)の計画に言及しているのである。


この小説の内容は、鋭敏な感覚と才知とを兼ね備えた作曲家が、精神のなお一層の飛躍を期待して、

現代の悪魔と契約を結ぶ、そして二十五年後に契約の期限が切れる直前に、

具体的には、スピロヘータ・パリダによる精神錯乱に陥るその直前に、ある特異な作品を完成させる、

しかしその作品が、じつは悪魔との結託によって生ずるいわば狂気の産物と異質のものであって、

その作品の真髄は生涯にわたる苦悩の告白であり、心底からの人間的な叫びであった、というものである。

トーマス・マンは『ファウストゥス博士の成立』(1949年)のなかで

「レーヴァーキューンはいわば理想像、『現代の英雄』、時代の苦悩を担う人間」であることを述べ、

自作の主人公たちの中で、ハンノー・ブデンブロークを除けば、

かれほど愛したものは他にないことを打ち明けている。
「スターリングラードの戦い」の終焉
ドイツ人捕虜
1940年2月


Das Ende der Schlacht von Stalingrad:
Deutsche Gefangene. Februar 1943
Das Photo, aus: " Klaus Schulz, Deutsche Gechichte und Kultur",
- Verlag Langewiesche, Königstein; Max Hueber Verlag, Ismaning - , 1972
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