VII
1926年の12月ごろに、旧約聖書に題材を取ったヨーゼフの物語を書き始めている。

1929年11月、ノーベル文学賞授与が決まる。

1932年、ドイツは、失業者数が増大し、その財政および経済は、深刻な状態になってきた。

この経済危機を背景に、ナチス(国家社会主義党)は、この年の国会選挙で躍進し、

1933年の初めには、政権を獲得、アードルフ・ヒトラーが首相となる。



トーマス・マンはこのような状況を懸念しながら、

ヴァーグナーの死後五十年を記念した講演のため、オランダ、フランスへの旅に出た。

ドイツの情勢はさらに緊迫の度を加えてきたため、

クラウスとエーリカは父を電話で説得し、帰国を思いとどまらせた。

マンはその後フランスのホテルを転々とした後、スイスへ逃れ、

やっとチューリヒ湖畔のキュストナハトに落ち着く。

ここでは五年間を過ごすことになるが、

その間、193612月2日に、トーマス・マンはドイツ国籍を剥奪される。

同月19日には、ボン大学哲学部の名誉博士号も剥奪される。

かれは1938年の春にアメリカの北部を講演して回るが、その折に、

この新大陸への移住を決心したようである。

そしてこの年の9月に、さしあたり、プリンストン大学の講師として、

アメリカ合衆国に移り住むことになる。


『ヴァイマルのロッテ』に着手したのは、

1936年、ヨーゼフ小説の第三巻『エジプトのヨーゼフ』を完成した後であった。

初めは『ヨーゼフとその兄弟たち』の中の単なる一挿話のつもりであった。

マンは当時こう述べている、

「(『ヨーゼフとその兄弟』の)第四巻に着手する前に、まったく別な作品を試みるつもりです。

それは1816年のヴァイマルを舞台にした物語ですが、

その中で私はひとつゲーテ本人を再び立ち上がらせるという奇想天外な楽しみを味わうことでしょう。

大胆な行為ではありませんか! 四十歳の時には回避しましたが(『ヴェニスに死す』の時のことです)、

六十歳のいま、喜劇風なものとして取り組んでみたいと思います。」
(アンナ・ヤーコプソン宛、19361113日)


『ヴェニスに死す』(1912)の成立の事情については、

かつて、この短編小説を発表して三年ほど後に、こう述べていた。

「私がとりわけ関心を持っていたのは、芸術家の品位の問題でした。

いわば、巨匠であるということの悲劇のようなものを提示しようとしたのです。

じつは、私は、そもそもは、ほかでもないゲーテの最後の愛の物語を、

つまり七十歳のゲーテがあの若い娘にたいして抱いた愛の物語を描くことを計画していました。

― 不快で、美しい、グロテスクで、感動的な物語です。

これを私はそれにも拘わらずおそらくもう一度物語ることになるでしょう、云々」
(エリーザベト・ツィマー宛、1915年9月6日) 

このときトーマス・マンはゲーテの最後の恋愛の物語が念頭にあって、

巨匠であるがゆえの悲劇を描こうとしたが、このときには、その構想は少しかたちを変えて、

創作に滞りを感じた初老の芸術家が、年齢にいささかそぐわない「感情」に耽溺し、破滅をするという

筋書になった。


そしてその後、二十年の歳月を経て、

ついに、「ゲーテそのものが登場する」するというかたちで世に現われた。



 トーマス・マンは、自分の『ゲーテ小説』の女主人公シャルロッテ、その直系で同名の子孫宛に

かの女の質問に答えて、この作品に関する史実と虚構について、あれこれと説明している。

その中で、特に注目に値するのは、

「ゲーテは、この年の9月25日の日記に、とても短くかつそっけなく、

『昼、リーデル家の人たちとハノーファーのケストナー人』と記述しています。

また、シャルロッテが、到着後エレファント館で、ゲーテ宛に書いた紙片は、私が創作したものです。

しかしながら(作品の)489頁の息子(公使館参事官ケストナー)宛の手紙の部分は、史実に基づいています」
(シャルロッテ・ケストナー宛、1951年6月18日)

という記述である。


そのマンが「史実そのまま」という「シャルロッテが息子に宛てた手紙」の内容は:

「あの偉大な人物との再会についてはそんなに述べることはありません。

せいぜいのところ言えるのは、私はある老人と新たに知り合いになりましたが、

その人は、もし私がそれがゲーテであることを知らなかったら、そしてまた知っていても、

私に何ら快い印象を与えなかった、ということです」

このことから、ゲーテとシャルロッテとの面会は、

ゲーテにとっては、日記には単に事務的に表記しているゆえ、きわめて印象の薄いものであったであろうし、

シャルロッテにとっては大いに不満の残る、そして幻滅を感じさせる出会いであったと推察される。

このわずかに見られる「両者の行き違いの感想」にトーマス・マンは注目したのである。



1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドへ侵攻。第二次大戦が勃発する。

『ヴァイマルのロッテ』はこの年の秋に、アメリカで完成する。

トーマス・マン
1932


Thomas Mann
(1932)
Das Umschlagfoto von
"Inge Diersen, Thomas Mann. Episches Werk / Weltanschauung / Leben."
Aufbau-Vlg., Berlin u. Weimar 1975
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