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VI
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女優だった妹のカルラが1910年の夏に自殺する。
1912年、カーチャがスイスのダヴォスのサナトーリウムに入院する。
「妻は、延べ数カ月間、スイスの高山で過ごさなければならなかった。
私は、5月から6月にかけて、三週間を、妻の傍らで過ごした」(『略伝』1930年)
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1914年8月1日、第一次世界対戦が勃発する。
戦時下の混沌とした社会情勢のなかで、その渦に巻き込まれたトーマス・マンは、
気にかかっていた政治問題(同時に個人的問題でもあった)に結着をつけるために、
1915年、『魔の山』(1924年)の執筆を中断する。
この頃、この作品は、まだ三分の一程度の執筆であった。
そして、政治的評論とも言うべき『非政治的人間の省察』の執筆に専念し、
1918年に仕上げる。
『魔の山』を中断したころであるが、マンはこの長篇小説について次のように述べている。
「それは教育的・政治的な根本意図をもった物語で、ひとりの若者がきわめて魅力的な力、
つまり死と対決しなくてはなりません。そして滑稽でかつ恐ろしいやり方で、
人道主義とロマン主義、進歩と反動、健康と病気というもろもろの精神的対立物を通して導かれます。」
(パウル・アマン宛、1915年8月3日) |
トーマス・マンはやむにやまれぬ気持からr魔の山』を中断し、『考察』に取りかかったと言うが、
その執筆途中にしてもう既に、論争に深入りしたための精神的疲労と後悔を告白している。
このような作家の心理が『魔の山』の二人の論客にたいするカストルプの態度に反映している、
と見るのは考え過ぎというものであろうか。 |
まだ『魔の山』に着手してまもないころ、兄のハインリヒ・マンに宛てた手紙では、
「私の勤めは終ったと思います。たぶん私は決して作家になってはいけなかったのでしょう。」
(1913年11月8日)
と弱気をみせ、創作への自信喪失を窺わせた。
もっと以前『トーニオ・クレーガー』を書いていたときには、自殺を考えたこともあった。
しかし「私には、≫作品≪ではなくて、自分の人生が問題なのです」という信念のもとに、
運命を甘受し、精神と意志を次第に強固なものにしていった、と思われる。
ハインリヒ・マンの『ゾラ論」(1915年)が発端となってマン兄弟は仲違いをしていたが、
のちに兄が和解の申し出をしてきたとき、それにたいする返書の末尾に、
「苦痛ですつて? 大丈夫です。ひとは粘り強く、そして鈍くなるものです。
カルラが自殺し、そしてあなたがルーラと生涯絶交なさって以来、
一生縁を絶つということは、私たちの間ではもはや目新しいことではありません。
私がこのような生活を惹き起こしたのではありません。
私はこのような生活が嫌いですが、できる限り、終いまで生きなければなりません。」
(1918年1月3日)
と書いている。この手紙から、心に与えられた傷はなかなか癒えそうにないこと、
そして兄弟間の軋楳のその根は深いことが感じとられるが、
それとともにこの手紙には、トーマス・マンの人生にたいする執鋤な姿勢がよく表われている。
このような手紙を書いた翌年(1919年)の4月下旬、
トーマス・マンは、中断していた『魔の山』の続きの執筆に、やっと取り組む。
そして、まる5年後、「ようやく魔の山の結末が導入され、全体の構成が定まりました」
(1924年4月)
と古くからの付き合いの友人に宛てて書いている。
『魔の山』が完成したのは、この年の9月末である。 |
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カーチャ婦人と子供たち
1920年
Katja Mann mit den Kindern
(1920)
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Das Photo, in: Inge Diersen, Thomas Mann.
Episches Werk / Weltanschauung / Leben.
Aufbau-Vlg., Berlin u. Weimar 1975
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