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 トーマス・マンは、1911年5月中旬にイストリア半島のポーラの沖ブリオーニ島へ旅行するが、

この島に滞在中(5月18日)にグスタフ・マーラーの訃報を聞いた。

ブリオーニ島は余り居心地がよくなかったようで、マンはさらにヴェネツィアへ渡り、

リードのホテルに、6月初めまで、1週間ほど滞在する。その間にある構想が浮かんだらしい。

「そこで一連の奇妙な事情と印象とが寄り集まって、私の内部に、

この潟に囲まれた町の名と結び付いた標題を持つ、あの物語への着想を芽生えさせた。」
 (『自分のこと』1940年)

そして翌月にはもう執筆に取り掛かっている。

「私は仕事をしています。ヴェニスから持ち帰った、まさしく奇妙な話で、短編小説ですが、

調子は真剣かつ純粋で、ある老いつつある芸術家の少年愛の問題を扱っています。」
 (フィリップ・ヴィトコプ宛、1911年7月18日)

この短編小説は『ヴェニスに死す』という標題で、翌年(1912年)の夏に出版される。
トーマス・マンは、

『トーニオ・クレーガー』を脱稿して、約1年半後(1904年2月)にカーチャと知り合うが、

彼女に宛てた手紙には「憧憬と軽蔑との混合、イローニッシュな愛が私の本来の感情領域でした。

TKは『生』を愛していました。つまり青い眼の日常性を、悲しい気持ちで、嘲笑して

そして希望もなく。」(1904年8月末)と書いている。

1903年にプリングスハイム家と近づきになったトーマス・マンは、

この一家の聡明で美しい娘カーチャに思いをかけ、以後求愛の手紙を書き続け、1905年1月に結婚するが、

この頃から長編小説『大公殿下』(1909年)の構想と執筆がなされている。

このメールヒェン風で、喜劇的な雰囲気をもち、

「『トーニオ・クレーガー』とは対蹠的な作品」(ヴァルター・オーピツ宛、190312月5日)は、

1905年1月、カーチャとの結婚式の直前に完成する。
 『ヴェニスに死す』の創作の最初のきっかけは、作者によれば、

ゲーテが晩年に十七歳のウルリーケ・フォン・レーヴェツォーにたいして抱いた恋を物語の対象にして、

ある魅力的で無邪気な生命にたいする情熱のゆえに、高位に上った精神が失墜する、

その経緯を描いてみようという気になったことだという。

ずっと後年になっての説明にも、「ゲーテのあの重大な危機、

かの素晴らしいカールスバートの悲歌はこの危機のおかげであることを我々は感謝するが、

そしていずれにせよ、いわば死のまえの死であったところの非常に深い困惑と忘我の境からの叫びを

 − 私はそもそも表現したいと思った」(『自分のこと』)とある。

ところが物語は、トーマス・マンにおいては、とりわけこのような場合が目立つが、

構想そして執筆の段階で、次第に成長し、変化してゆくことになる。

物語の主人公の身体的特徴については、「外見的には、このグスタフ・フォン・アッシェンバハは、

あの偉大なオーストリアの音楽家、グスタフ・マーラーの容貌を具えている。

彼は当時ちょうど重病人としてアメリカでの演奏旅行から戻っていた」(同上)

とのことであるが、冒頭で触れた、具体的な構想に入る直前にマーラーの訃報を聞いたということが

主人公の死と何らかの関係を持つことも想像に難くない。
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