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IV
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トーマス・マンは、1903年12月5日、ヴァルター・オーピッツに宛てて、
「私は.芸術家は君主と同様に象徴的存在・代表的存在という性格を帝びている、
と言いたいのです。 一 そして、ごらんなさい!
この Pathos には私がいつか書くつもりでいる全く風変りな事柄への萌芽、
君主小説への萌芽、『トー二ォ・クレーガー』と対になるものへの萌芽があり、
この対となる作品は『大公殿下』というタイトルを帯びることになります。」と書いている。
トーマス・マンは1904年10月3日にカタリーナ・プリングスハイム(愛称カーチャ)と婚約し、
翌年1月に結婚するが、
『大公殿下』は1905年から書き始められ、完成したのは1909年の2月である。
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190l年に二巻本で出版された『ブデンブローク家の人々』が世間の好評を博し、
トーマス・マンは作家として立つことに自信を得た。
1003年にミュンヒェンの社交界に紹介され、プリングスハイム家と近づきになったトーマス・マンは、
この一家の頭がよくて美しい娘カーチャに思いをかけるようになり、
1004年以降、カーチャに宛てて求愛の手紙を書いている。
「私に付着している代表的・人工的なものからの治癒、
私の個人的・人間的な部分への無邪気な信頼の欠乏からの治癒が
私にとってはひとつのことによって可能となるのです。つまり幸福によって。
利口で、愛らしくて、親切で、人に好かれる小さな王妃であるあなたによってなのです!. . .
(中略)私の妻になって下さい。そしてかの≫ぎこちなさなどのようなもの≪によって
惑わされたりしないで下さい!(1904年6月初め)
トーニオ・クレーガーには、
芸術家であるためには人間的な感情を捨てなければならない、という考えがあった。
しかし、それにもかかわらず、「平凡な市民生活」への軽蔑の入り混った憧憬を捨て去ることができない。
トーオ・クレーガーは二律背反に昔しんだ。
そしてこの二律背反による自己分裂を免れるために、報われることのない愛に甘んじた。
これによって自己分裂に至らず、芸術家としてのひとつの道を見出しもしたが、
まだ感傷的な気分を多分に含んだ愛に留まっていた。
「私はこれまでいつも、愛する時には同時に軽蔑もしていた。
憧憬と軽蔑との混合、イローニッシェな愛がそもそもの感情領域だった。
トートーニオ・クレーガーは≫生≪を愛したのだった。つまり青い限をした凡庸さを、
悲しい気持で、嘲笑的にそして希望もなく。(カーチャ宛、1004年8月末)
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当時、トーマス・マン自身にも、市民的な愛による幸福、現実の幸福はあくまで憧れにすぎない、
という諦めに似たものがあったのであろうか。
たとえそれがあったとしても、心の内には自分の支えとなってくれる人、
生涯の伴侶を切に求める気持が潜んでいたことは疑いえない。
それは人間の感情として当然のことである。
次の言葉から、諦めと願望とが交錯しているトーマス・マンの心中が窺い知られる。
「とりわけ人好きがするわけでなく、気まぐれな、自虐的な、ものを信じない.邪推深いが感しやすい、
そして共感をまったく異常なほど渇望しているこの人間に承諾を与えてくれる人はどこにいますか 一 ?
(中略)好意と信頼から、しっかりと私の味方になってくれる(人は)?
このような人はどこにいますか ? ! ? 一 深い静寂。」(パウル・エーレンベルク宛、1902年1月28日)
しかしトーマス・マンは、カーチャと知り合い、愛情を感じ始めると、
諦めの気持は消え、希望を見出し、孤独な自分にも現実の幸福が可能である、という心境になった。
いや、可能性を見出した、という分別めいた心境ではなく、そこにしか自分の幸福はない、
とまでに思い詰めた気持になってしまう。
「私は毎夜彼女の夢を見る、そしてすっかり傷ついた心で目をさます。
私は、彼女について、諦めるには余りに多くのことを経験した。
死は、彼女なしで生きていくことよりもずっと簡単な諦めである、と私には思える」
(クルト・マルテンス宛、1904年7月14日) |
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カーチャ・プリングスハイム
(1905年)
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Katja Pringsheim (1905)
Das Photo oben, in: Inge Diersen, Thomas Mann.
Episches Werk / Weltanschauung / Leben.
Aufbau-Vlg., Berlin u. Weimar 1975
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