III
トーマス・マンにとって唯一の戯曲である『フィオレンツァ』は、

『トーニオ・クレーガー』を発表してからほぼ二年後、1905年1月に完成し、

『ディ・ノイエ・ルントシャウ』誌の同年7、8月号に連載された。

トーマス・マンは、1900年の12月に、ミエンヒェンで、フィレンツェ・ルネサンス彫刻模造展を見学した。

そして翌年の2月ごろから、この戯曲のための資料を調べ始めた。

従って、『トーニオ・クレーガー』の執筆に取り掛かった時期のことである。

ヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』、

バスクアーレ・ヴィラーリの『サヴォナローラとその時代』、

ジョルジョ・ヴァザーリの芸術家列伝などに読みふけり、

同年5月には、フィレンツェおよびヴェネツィアヘ旅行し、

その折に、ジローラモ・サヴォナローラの足跡を辿っている。

そして1902年に、禁欲的な若者を主人公とした『神の剣』を書きあげてみた。

この主人公ヒエローニムスは、サヴォナローラの前身とも言える人物であり、

そもそもこの短篇小説は、戯曲『フィオレンツァ』を書くための小手調べでもあった。
ただし、『フィオレンツァ』はその素材が歴史から取られてはいるけれども、

作者は歴史上の事実に忠実に言及しているわけではない。

要するに、作者にはサヴォナローラの生涯、あるいはこの修道士とロレンツォ・デ・メーディチの対決を

歴史的に解釈しようという意図はなかった。

『フィオレンツァ』を発表しておよそ半年後の作者の発言にも

「私が歴史的なことに関してできることは、

私はそれを『フィオレンツァ』というかたちで示したと思っていますが、

それは色合いです。」(1906年1月17日ハインリヒ・マン宛)とある。

作者の視点は徹頭徹尾サヴォナローラの内面生活へと向けられ、

作者は芸術家としてその解釈を試みようとした。
後年、1918年に発表された『非政治的人間の省察』は、ヨーロッパ文明についての批評であるが、

そうであると共に、ハインリヒ・マンとの感情の縫れ、思想の対立から生じた、個人的論争でもあり、

トーマス・マン自身の内部におけるポレーミクでもある。

その「内省」の項に『フィオレンツァ』に関して述べている個所がある。

それによれば、この修道士をきわめて現代的な規律を遵守する過激な文士と呼び、

さらにこの過激な文士は「無を欲する」がゆえに政治家である、ということになっている。

つまり、『省察』において、トーマス・マンは、サヴォナローラを、みずからの論争の主要な相手、

他でもない、兄のハインリヒ・マンへと、暗に結び付けている。

マンは、「修道士ジローラモに精神的な関心をいだいていた」という発言もしているが、

作者の言う関心とは、したがって、率直な共感というものではなく、

そこには、かなり屈折した感情がこめられているのであろう。
トーマス・マンは、カタリーナ・プリングスハイムに思い焦がれ、切々たる求愛の手紙を書き続け、

『フィオレンツァ』が完成に近づきつつあった頃、

1904年の10月になって、ようやく婚約に漕きつけることができた。

それなのに、もう、そのほぼ一カ月後には、

翌11月には『フィオレンツァ』をぜひとも仕上げたい、と考えていた時期だが、

フィリップ・ヴィトコプ宛に、

「そのうえ良心も落ち着かない。それというのも『幸福』に対する私の怖れが小さくないからだ。

それで私はなお依然として、『生』ヘの自分の献身が、いったい大いに道徳的なことであるのか、

それとも一種の自堕落であるのか、と疑っている。」と書いている。

じつに懐疑的な発言であるが、同時に、これはトーマス・マンの倫理性の特徴をもよく表わしている。

修道士サヴォナローラが、作品の中で、

戒律を遵守する徹底して倫理的な精神の持主として描かれていることは、

作者の自己を戒める気持のあらわれとも解釈できる。

そのような作者の心情は「トーマス・マンの書斎には、

サヴォナローラの小さな肖像画が長いこと掛けてあった」ことからも窺い知られる。
ドメーニコ会修道士
ジローラモ・サヴォナローラ像
(サン・マルコ修道院)
Girolamo Savonarola
(Gemälde von Fra Bartolommeo, um 1498; Florenz,
Kloster von San Marco)
Aus: Der Neue Brockhaus.
F. A. Brockhaus, Wiesbaden 1979
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