トーマス・マンの父親の死後、母親は、ブルク門のすぐ外の小住宅に数か月いただけで、
まもなくマンの弟妹を連れ、ミュンヒェンへ移り住んだ。
このとき、トーマス・マンは、学業のためにリューベックに残るが、一年後にはもう、中途退学をする。
要するに、兵役の義務を一年で済ますことのできる
一年志願兵の資格証明書をもらいたかっただけのようである。
そして、母の後を追って、ミュンヒェンへ行く。
そこで、さしあたり火災保険会社の無給見習社員になるが、数か月を勤めただけで、辞めてしまう。
家業が潰れたとはいえ、かなりの額の遺産があり、
働かなくとも、生活に窮することはなかったこともあろうが、
この頃に、マンは、作家として立つべく、意志を固めたのかも知れない。
勤めを辞めると、ミュンヒュン工科大学の聴講生になる。
特に目的があったわけではなさそうだが、
作家として自立したときのために知識を得ておこう、という気持はあったと考えられる。
一方、勤務中にひそかに書いていた処女作『転落』が、
ライプツィヒの社会主義的な『ディー・ゲゼルシャフト』誌に掲載され、
リーヒャルト・デーメルから称賛の手紙をもらっている。
1895年に、兄のハインリヒ・マンに誘われ、イタリアへ旅行し、その翌年に、再び訪れたが、
この滞在から受けたイタリアの印象は、反感と愛情の入り混ったアンビヴァレントなものだったようである。 |