II


Burgtor
in Lübeck 2001
トーマス・マンの父親の死後、母親は、ブルク門のすぐ外の小住宅に数か月いただけで、

まもなくマンの弟妹を連れ、ミュンヒェンへ移り住んだ。

このとき、トーマス・マンは、学業のためにリューベックに残るが、一年後にはもう、中途退学をする。

要するに、兵役の義務を一年で済ますことのできる

一年志願兵の資格証明書をもらいたかっただけのようである。

そして、母の後を追って、ミュンヒェンへ行く。

そこで、さしあたり火災保険会社の無給見習社員になるが、数か月を勤めただけで、辞めてしまう。

家業が潰れたとはいえ、かなりの額の遺産があり、

働かなくとも、生活に窮することはなかったこともあろうが、

この頃に、マンは、作家として立つべく、意志を固めたのかも知れない。

勤めを辞めると、ミュンヒュン工科大学の聴講生になる。

特に目的があったわけではなさそうだが、

作家として自立したときのために知識を得ておこう、という気持はあったと考えられる。

一方、勤務中にひそかに書いていた処女作『転落』が、

ライプツィヒの社会主義的な『ディー・ゲゼルシャフト』誌に掲載され、

リーヒャルト・デーメルから称賛の手紙をもらっている。

1895年に、兄のハインリヒ・マンに誘われ、イタリアへ旅行し、その翌年に、再び訪れたが、

この滞在から受けたイタリアの印象は、反感と愛情の入り混ったアンビヴァレントなものだったようである。
ミュンヒュンに戻ったマンは、ランゲン書房で、風刺雑誌『ジンプリツィシムス』の編集に携わることになる。

そして1899年の9月に、故郷のリューベクに立ち寄りながら、デンマークへ休暇旅行に出かけた。

この故郷の町では、詐欺師と間違われ、あやうく逮捕されそうになった。

かれは、『ブデンブローク家の人びと』に、1897年に着手し、以後の三年の間を、

「辛労と誠実とでもって書き続け」るが、この長篇小説は、この時点では、まだ出来上がっていなかった。

デンマークでは、オールスゴ一という辺鄙な海水浴場に、九日間、滞在するが、

ここで、無意識のうちに、ひとつの構想が、ある短編小説の構想が、浮かんだ、ということである。

1900年の5月に『ブデンブローク家の人びと』は完成し、

その後に、この新らしい作品の執筆に取りかかったらしい。

途中、1900年の10月に、一年志願兵として、バイエルンの歩兵連隊に入隊するが、

すぐに、脚の関節の炎症を起こし、病院送りとなり、けっきょく、兵役には不適格として、

たった三か月で、除隊となる。

新しい短編小説は、思うようには進捗しないときもあり、

トーマス・マンは、ずいぶん苦労をして、慎重に筆を進めた。

「私はこの冬の間、仕事をせず、ただ体験をしただけです。」

この作品は『トーニオ・クレーガー』という標題で、1903年2月に、

『ノイエ・ドイッチェ・ルントシャウ』誌上に発表されるが、

700ページに近い『プデンブローク家の人びと』を、三年間で書き上げたトーマス・マンが、

その十分の一の分量の短篇小説を完成するのに、二年以上も費やしている。
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