I
トーマス・マンは、1875年、かつてのハンザ同盟の中心都市リューベックで生まれた。

旧家の穀物商会「ヨーハン・ジークムント・マン商会」の次男としてであった。

のちに市参事会議員になった父は同市で勢力をもった人物のひとりであったが、

商会経営の方は傾きかけていた。
トーマス・マンは、

「ひそかな手本として私のあれこれの行為を規定しているのは、やはりほんとうは私の亡き父の人格です」

と打ち明けている。

そして父親は「品位と聡明、野心と勤勉、個人的そして精神的な優雅さ」を持ち、

「もはや単純な男ではなく、頑健ではなく、神経質で、耐える能力があり、

しかし自制心をもった男」であったという。
母親はブラジル生まれの混血の美しい女性で、音楽の才能があり、

子供たちには、ギリシア神話や童話をよく読んで聞かせた。

マンは、

「母からは、ゲーテが『朗らかな天性』と『空想豊かに話すことの楽しみ』を受け継いだ」

と言っている。

さらに、ある友人宛の書簡に、

「私は、次男である自分が母の心にもっとも近いと思う」とも書いている。
七、八歳の頃から、夏になると、近くの海水浴場トラーヴェミュンデで過ごした。

そのときのことを、マンは、後年、

「私の青少年時代でもっとも輝かしい時期は、

毎年トラーヴェミュンデで過ごす夏休みの何週間かであった。」

「夏休みの初めは見渡しえないほどであった四週間が終わり、帰宅して日常の生活に入るときにはいつも、

私の胸は自己を哀れむ軟弱な苦痛によって引き裂かれた。」と回想している。
十四歳で、カタリーネウム実科高等中学校に入るが、上に引いた文に続けて、

「私は学校を嫌悪し、そのもろもろの要求には最後まで応えなかった。」と書いている。

教師たちは「私のことを、確実に破滅すると予言した」という。

このカタリーネウムに在学中に、父親が、五十一歳という若さで、敗血症のために亡くなる。

それとともに、百年のあいだ続いてきたマン商会も解散となる。
母親は、市門の外の小住宅に移り住むが、そこにはわずか数か月いただけで、

まもなくマンの弟妹を連れ、ミュンヒェンへ移り住む。

トーマス・マンはリューベックに残り、学業を続けるはずだったが、

一年後にはもう、学校を中途で退学し、母の後を追って、ミュンヒェンへ行く。

1894年3月、彼が十八歳のときのことである。
マンのリューベック時代はこれで終わりを告げ、

以後の長い人生のあいだで、この故郷へは、何度か、ほんの束の間の、滞在と訪問をしただけである。

ミュンヒェンに移って一年あまりのち、兄のハインリヒに誘われて、

1895年の夏、三ヵ月ほど、イタリアへ出かけ、ローマを見学する。

翌年6月に、ウィーンへ行き、それからヴェニスに立ち寄り、

そしてローマを再訪し、このローマおよびその近郊に、このときは、一年半ほど滞在する。

97年の夏にも、ローマの近くの、今度は、ザビーニ連山の中のパレストリーナという小さな町で過ごす。

このイタリアの辺鄙な町に居座って、自分自身の、リューベックにおける子供時代の体験を元にして、

家族の歴史に関しても、あれこれ資料を収集し、それらを敷延した作品に取り掛かる。

それが、ほぼ二年半後、1900年の5月に、

『ブデンブローク家の人びと − ある家族の没落 − 』として結実した。

まだ、トーマス・マンが、そろそろ二十六歳という頃である。
当時のトーマス・マン

兄のハインリヒ・マンとともに



Heinrich und Thomas Mann
( um 1900 )
Das Photo, in: Inge Diersen, Thomas Mann.
Episches Werk / Weltanschauung / Leben.
Aufbau-Vlg., Berlin u. Weimar 1975