左:「フェーリクス・クルルの署名」
トーマス・マンが練習したもの

Unterschriftsübungen Felix Krulls, von Thomas Mann


aus: Klaus Schröter, Thomas Mann.
rowohlts monographien Nr.93.
Rowohlt Taschenbuch Vlg., Reinbek bei Hamburg, 1964
 この作品の表題のとおり、もはや疲れ、老け込んだ四十歳の元詐欺師が、
今は俗世間を逃れて静かに暮らしている毎日であるが、暇に任せて筆を取り、回想録を書いている。
この語り手が言うには、自分が世に伝えようとしているものは、
「まさしく私自身の直接の経験と誤謬と情熱とで成り立っている。」
フェーリクス・クルルは、自分は日曜日に生まれた幸運児であること、
フェーリクスという名前は幸福を意味すること、
そして自分の容貌は優雅でひとに好感をもたせるものであることを知っており、
その心の奥底に、つねに、幸運にたいする確信を抱いている。
そしてまた、この世の中はすばらしいものであり、この世界という現象は、甘美な幸福を与えてくれるもの、
そして高邁な努力と希望に値するものと考えている楽天家である。

 しかし、かれの家庭環境の設定はどのようなものであったのか。
フェーリクスに言わせれば、母親は卓抜した精神的才能のほとんどない、見栄えのしない女であり、
姉オリュンピアは、のちにはオペレッタの舞台に立つけれども、
肥満した、異常なまでに享楽欲にとらえられたやつ、である。
父親も、一片の優雅さを伴っていたが、ぐうたらで、品行もよいとは言えず、
平気で粗悪なシャンペンを売っている。
それで、学校仲間の連中は、彼らの両親から、フェーリクスとの交際を避けるようにと言われている。
フェーリクスの家庭は見かけは、大勢の客を招待し、盛大に晩餐会を催したりして、
市民階級を装ってはいるけれども、その実態は、父の事業は逼迫し、破綻する寸前にあった。
このようなトーニオ・クレーガーの、ひいては作者自身のカリカチュアのような環境の中で、
フェーリクス・クルルは、自分の天職と感じつつある仮象の世界での演技に耽りながら成長する。

 かれは小さい子供の時には、空想で王様になって遊ぶのに夢中になったり、また、
鏡の前で、憑かれたように精神を集中させ、瞳孔を意のままに縮小させたり拡大させることに熱中し、
完全にそれに成功する。
また、まだ八歳のとき、一家が夏に近くの温泉場ランゲンシュヴァルバハで過ごしたときのことであるが、
毎日催される音楽会に夢中になり、とくにヴァイオリンの演奏に惹きつけられ、
二本のステッキを巧みにつかって演奏の真似事をし家族を楽しませた。
この完璧さに感心した父親が、楽長と共謀して、
フェーリクスにかわいらしい水兵服に絹の靴下とエナメル靴という着飾った姿をさせ、
安物の小さなヴァイオリンと入念にワセリンを塗った弓をあてがう。
フェーリクスはそれを巧みに操って、本物のヴァイオリン弾きを見事に真似、観衆の非常な喝采を浴びる。
 のちに、かれが十八歳のとき、父が事業に失敗し、ピストル自殺を遂げた後、かれは、
名付け親シンメルプレースターの紹介で、パリの「セイント・ジェイムズ・アンド・アルバニー」というホテルで、
試験的に採用してもらう手筈になっていたが、
しかし兵役の問題があり、これが片付かないうちは国境を越えることはできなかった。
かれは、1マルク半で、臨床医学の印刷物を手に入れ、熱心に読み耽る。
夜、台所で、ローソクを灯して鏡に向い、実地の練習に移る。
かれは、飲酒癖のある父親の病的素質が遺伝した癲癇患者として不合格と宣言される。
この兵役を逃れるべく行った偽装は天才の域にある。

 フェーリクス・クルルは徴兵検査を巧みに逃れたのち、汽車でパリへ向かうが、
国境の駅での税関の手荷物検査の際に、係員が取り違えて、
かれの隣にいたミンクの毛皮のコートに鷺の羽飾りをつけた中年の婦人の所持品のひとつが、
偶然かれトランクのなかに滑り込む。
かれはそれを天からの授かり物といった風にそのままにする。
ここでかれは意図的にはいかなる行為もしていないが、詐欺的行為への類似ないしその萌芽をうかがわせはする。
つまり、中断前の幼少以来のフェーリクス・クルルの人物像への滑らかな脈絡がここには存在する。

 幸いパリのリュ・サン・トノレ通りにあるセイント・ジェイムズ・アンド・アルバニー・ホテルの
エレヴェータ・ボーイとして採用されたクルルは同部屋のクロアチア人、スタンコに
品物を処分できる店を教えられる。

 フェーリクス・クルルはホテルからあまり遠くないパリの中心部の静かな一隅に小部屋を借り、
ときに少し高級な生活を楽しみたいと思うと、こっそりそこで着替えをしていたが、
7月のかの国民的祝祭の前の晩に、
ブルヴァール・サン・ジェルマンにある「グラン=ドテル・デ・ザンバサドェール」のテラスで、
洗練された身なりで食事をしていたとき、
かれの勤め先の常連のド・ヴェノスタ侯爵と出会い、候爵の事情から役割の交換を提案される。

 クルルはヴェノスタ侯爵の代わりに、8月15日に出帆する「カプ・アルコーナ」に乗るべく、
急行列車でリスボンへ向かうが、そこの食堂車で年配の紳士と相席になる。

その紳士は、クックックという名の古生物学の専門家で、
この車内での食事の間、クルルを相手に、延々と講議をする。
たとえば、
「自然発生という現象は三回ある」
それは、無からの存在の発生、存在からの生命の覚醒、および人間の誕生である。
あらゆる自然は、その最も初期の形態のものから最も発展した形態のものに至るまで、
同時的に存在している。
原生動物の細胞体には、「補給のための口と排泄のための口(穴)」とがあるが、
動物であるためには、それ以上は必要ない、
そして人間であるためにも、たいてい、もうそれ以上は必要ない、云々
といった類いの話である。

クルルは、クックック教授のこの一連の話に、
すっかり酩酊してしまったような、茫漠とした気持ちになるのだが、
この教授との出会いが、この物語の上でのフェーリクス・クルルの体験のうちで、最も重要なものである。
クルルはクックックによって、人間の存在の秘密についてのじつに貴重な示唆を受け、
自己の存在との接点について、熟考を重ねることになる。 


クルルは、「オ・ロシーオ」で、品のよい三人連れ、
おそらくは母娘だと思われる中年の婦人と若い十八ぐらいの少女と、
鷲鼻で眼鏡をかけ、長髪の芸術家といった風情の、ほとんど中年まえの紳士、と出会い、
その中の、社会環境からはみ出した、野放図で個性的な娘、ズーズーにかなり好感を持つ。
翌日、ルア・アウグスタからほど近いルア・ダ・プラタにあるリスボン博物館を見学する。
その見学の際、クルルは、オオアルマジロと剣歯虎について感想を述べるが、
クルルの感想の明瞭さは、
教授による一連の講義がクルルの思想の形成に多大な影響を及ぼしていることを如実に示している。

 馬車でシントラへ遠出し、そこの古城と岩山の上の砦を見物し、そのあと、ベレン修道院を訪れ、
その回廊で、クルルはクックック教授のように教育者的な態度で、
再度、愛の問題について、みずからの見解を述べる。
クルルはクックックから人間の由来についての講義を受けたのち、この人間の由来についての考え、
つまりは自分の方向、人生哲学を完全に築き上げる。
その一端は、そしてこれはかれの存在の意義に関わる重要な見解であるが、
「愛」についてのズーズーへの講義の中に現われる。
かれはここで、人間にとって現実における仮象が必要不可欠なものであることを懸命に説く。
つまり、クルルは単に教育者的な態度を示しただけではなく、
「実生活との融和」というかたちでの「仮象の存在意義」を見い出し、
それをまた、ズーズーとの関係の中で「実現した」と言える。

 クルル自身は結局、続編までの全体を通して見れば、一般的な意味での「詐欺師」では全然なく、
強いて言えば、あくまで「象徴的な意味での」詐欺師にすぎなかったのであり、
その本質は、じつは人間存在についての「探究者」であった。
かれは、クックック教授の講義から、かれなりに、自分の思想を形成し、それは「信念」にまで高まる。
かれは、「生と人間精神」は物質的存在の中では単なる「挿話」にすぎないこと、しかし、
それにも拘わらず、極めて大事なものでもあることであることを認識し、
無限の宇宙における「万物の儚さ」を承知している人間は、
その儚さのゆえに、それをいとおしみ愛する存在であることをも確信する。


 フェーリクス・クルルは古生物学者クックック教授との出会いののちは、
きわめて明確な思想を持つようになった。
そしてそれは、とりわけズーズーとの会話の中での「愛」についての話として展開された。

作者トーマス・マンの無意識のうちに、と思われるが、
主人公フェーリクス・クルルは、長い中断ののちの「続編」において、内面的に著しい拡大を遂げている。
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