左の絵が
「グレゴーリウス(選ばれた人)の両親ヴィリギスとジビュラ」
のひな形となった(1460年頃の祭壇画)



Abbildung links:
Wiligis und Sibylla, die Eltern des Erwählten:
Vorlage war das <<Ulmer Verlöbnis>>
des Meisters vom Sterzinger Altar (um 1460)

aus:
Klaus Schröter: Thomas Mann.
rowohlts monographien
Rowohlt Taschenbuch Vlg., 1964
 この物語は、遡れば、ギリシアのエーディプス(オイディプス)伝説へと繋がるようである。
しかしグレゴーリウス伝説はエーディプス伝説の変種であり、
途中の経過の相異もさることながら、その結末には大きな隔たりが見られる。
つまり、ソフォクレスの『エーディプス』によれば神託に従って捨てられた子が、長じて、
それと知らずに自分の父親を殺し、スフィンクスの謎を解くことによって、
まさに運命の為すままに、父の国の王になり、母を妃に迎えるが、
しかし、最後に事の全貌が明るみに出されると、母は首を括り、
エーディプスは、母の上着の留め金で我が眼を突き刺し、盲目のうちに世をさすらう。
彼の気性は激しく、思慮深さに少し欠けるが、その判断や行為に疚しいところは微塵もない。
過ちがあったとも思われない。
彼は、非情な神託による運命をなんとか回避しようと、可能な限りの最善の道を選んだにもかかわらず、
返ってその運命に捉えられ、あるいは導かれて、罪を犯す。

しかし一方、中世の詩人ハルトマン・フォン・アウエの物語では、
まず、領主の双子の子供(兄妹)が、両親の死後、仲睦まじく過ごしていると、
そこに悪魔が介入して、二人は肉体上の関係を結ぶに到る。
生まれた子供は、エーディプスと同じように捨てられ、成長してから、知らずに自分の母と結婚する。
しかし、グレゴーリウスは真実を知ると、それを償うために、十七年間にわたって不毛の岩の上で贖罪に努め、
ついに、人知を超えた奇跡によって救済され、それのみならず、キリスト教界の頂点の座につく。

トーマス・マンは、みずから作品の最後に、「この物語りは、主として
中世高地ドイツ語の詩人ハルトマン・フォン・アウエの叙事詩『グレゴーリウス』に基づく。」
と断っているように、大筋において、このハルトマンを踏襲した。

 ハルトマン・フォン・アウエの作品においては、父が死ぬと、兄は一心に妹の世話を始める。
その結果、二人の関係はとても緊密になってゆく。
すると、「この幸福と快適さを、その高慢と嫉妬のゆえに地獄に閉じ込められている悪魔がとらえると、
彼にはこの二人の栄誉が癪にさわった(じじつ彼にはそれが余りにも大きすぎると思われた)、
そして彼は自分の習慣に従った」とあるように、
悪魔が介入し、画策して、兄に節度を越えて妹を愛することを吹き込むのである。

 この兄と妹が悪魔の誘惑によって罪を犯すという点について、トーマス・マンは新たな解釈を試みる。
彼はまず、悪魔は自然という形で現れている、悪魔の実体は自然の中に潜んでいると見る。
そしてこの出来事の経緯を人間の本能的な行動、その内面の動きを通して示そうとする。
 ハルトマン・フォン・アウエは、プロロークにおいて、自らが語り手であることを明らかにする。
彼は専ら、神に対する疑いを捨てること、神の慈悲はとても大きいゆえ、
罪を犯したら心から悔恨すること、この世の中には悔恨によって解放されない罪は存在しないことを説く。

しかし、トーマス・マンの作品における語り手は、
アイルランド人でクレーメンスというベネディクト派の修道士と設定され、しかも、この語り手は、
物語を書き進めながら、宗教伝説を物語る聖職者という立場にしては珍しいことと思われるが、
幾度か個人的な感情を洩らす。

 兄は聖地へ向けて出発する。子供は、その素性について書き記した書字板とお金と共に、
小舟に乗せられ、海へ流される。
兄は旅の途中に死んだという知らせが来る。

 さて、子供同士の喧嘩をきっかけに、グレゴーリウスは自分の素性を知ることになるが、
マンの場合は、フランとのいさかいの描写を通して、
つまりグレゴーリウスの乳兄弟のフランは首の短い、がっしりとした体格の若者だが、
何か競技をする際にはいつも、憎悪に駆られてグレゴーリウスと張り合う、という風に、
ハルトマンよりもかなり詳しい動機付けがされている。
自分の素性がわかったグレゴーリウスは、
「それにしても私は、私が神性について知っていることのすべてから見て、ただ哀れな怪物にすぎませんが、
(両親の罪を)許すことによって、きっと人間性を手に入れられるでしょう」
と、修道院長に、旅に出ることの許可を願う。

 彼は島を出ると、ある港に辿り着き、敵に脅かされていたその国の窮状を救うが、
そこの独り身の美しい女性君主との出会いの様子について、ハルトマン・フォン・アウエはこう説明する。
「彼女は自分の子供をよそ者と思った;

 それ以上には彼女の思考は進まない。一方、トーマス・マンは、
そのときのジビュラの表情をもう少し注意深く観察し、彼女の暗い予感、心の揺蕩を描き出そうと努める。
国に平和が戻ると、重臣たちは女王に結婚を勧める。
そのことで、ジビュラは、7日間の猶予を求める。
かの女の脳裡には、亡き兄、あるいは捨てた子供のことが浮かび、
そこに眼前の幸せを思い描く気持ちもまじり、心の中は、交錯する。
トーマス・マンはこう描いている。
「彼女はほほえんだ、が自分のほほえみに驚いて、それを厳しく顔から拭い去った、
涙が彼女の眼に浮かんだ、そしてそのひとすじが頬を伝ったとき、
彼女はふたたびほほえまずにはいられなかった。」
そして、いわば、ごく当然の事の成り行きとして、ふたりは結婚する。
すると、「書字板」が発見され、互いの素性が露見する。
グレゴーリウスは、ことこの時に至って、自分の「罪が非常に深い」ものであることを看取すると、
それをつぐなうためには、人間にでき得る限りの「極限の徹底的な贖罪」が必要であるという境地に至る

 グレゴーリウスは決然として贖罪の旅に出る。彼にはもういささかの迷いも見られない。
しかもその決意は悲壮なものでもない。
彼には自己の決意とその成就に確信があり、喜々として贖罪の地を求めてゆくのである。
彼はある湖のほとりの一軒家に辿り着き、翌朝には、
そこのあるじの漁師によって湖の中の不毛の岩へ連れてゆかれる。
その後の十七年間をハルトマンのグレゴーリウスは、岩から滴り落ち、
その下のくぼみに溜まるほんの僅かの水を飲みながら生き延びる。

時が経ち、ローマで教皇が亡くなり、その座をめぐっての血なまぐさい後継者争いの後、
ふたりの名望ある老人がグレゴーリウスのことについて神の啓示を受け、遠路この岩を訪ねてくる。

 さて、母が、新しい教皇はすべての罪人にとって信頼できる救助者であるという噂を聞き、
自分の大きな罪の重荷から解放されたいと思い、彼を訪ねて来る。
ジビュラは、ここでハルトマン・フォン・アウエの場合と同じように、懴悔をするのだが、
その際にハルトマン・フォン・アウエの作品には見られない重大な告白をするのである。
「真実が静かに宿っている深い底にはいかなる欺瞞もありませんでした。
それどころかそのときひと目見てすぐに同じ人であることがわかり、
それで自分の子供をそれと知らずにいながらじつは承知して、
この子供がまたしてもただひとりの同じ生まれのひとだったからですが、夫にしたのです。」
そして教皇が自分の素性を打ち明けると、ジビュラは、
「それは疾うにわかっていました。猊下、ひと目見てわかりました。私はあなたであることがいつでもわかります」
と言う。

 恩寵の問題は、当時トーマス・マンの気になっていたテーマのひとつであり、
それどころか、現実の境遇の中で、創作にたずさわる者のひとりとしても、
今度の大戦によって言わば絶望の淵に追いやられたドイツ人にひとりとしても、
それを切に求める気持ちがあったようである。
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