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Abbildung links:
aus "Ägypten, Baedekers Reiseführer."
Karl Baedeker GmbH, 1992
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四部作の長編小説『ヨーゼフとその兄弟たち』(1943年)は、
あいだに第二次大戦をはさんで、十六年余りにわたって書き続けられた。
この浩瀚な物語の全体の序章になる『冥府行』は
「過去という泉は深い。その底は究め難いほどと言えないだろうか?」という書き出しで始まる。
そして作者は、人間存在の秘密がわれわれの論議の始めであり、終わりでもあること、
そしてふつう「限定された種類の諸々の発端というものが存在する」と言う。
従って、遠い昔の人間であるヨーゼフもすでに覗き込んだ、冥府のような過去の深淵を顧慮すれば、
「われわれはかれに近く、かれと同時代人であるような気がする」と。
つまり、「『メーネスあるいはホール=メニーとかいう人が、およそ紀元前6000年頃に
最初のエジプト王朝を築いた、それでそれ以前は前王朝時代であった』という話であるが、
この発言の一切がおそらく誤りであろう」と話を続ける。
そして、鋭く迫るまなざしで見れば、王朝の始祖メニーはある単なる見せかけの時代にすぎなくなる。
われわれの時代から遥かなる過去へと視線を移すとき、少しく注意して観察をすると、
すべての「事物の起源は」遠いゼートの時代に紛れて、見えなくなってしまうのであるから、
バビロンとエジプトで教育を受けて成人したヨーゼフと、現代のわれわれとの間にある時間の隔たりは
ほとんど消滅してしまう、という前提に立つ。
匿名の語り手は、人間存在の根源を求めて、過去へ向かって遥かに遡り、その生成の起源について、
いわばファンタジーの世界の事象のかたちで、自らの姿勢を暗示的に占めしつつ、こう述べる。
「精神は本当に、魂を物質から解放することによって物質界を廃絶し、
そして魂を故郷へ連れて帰るために、派遣されたのか?」
「もしやその秘密は、第二の使者もまた、
悪に対して抵抗するために最初に派遣された、光だけから出来ていた人間と同じものであった、
という説の趣意のなかに含まれているのであろう。」
「魂と精神は同じ一つのものであったという発言は、
それらはいつか将来ひとつのものになるべきだということを、そもそも言おうとしているのかもしれない」と。
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この『冥府行』に続くヤーコプとヨーゼフについての物語は
旧訳聖書の創世記の第二十七章から第五十章にかけての、周知の筋書を持った話である。
ヤーコプが、母レベッカの策略を得て、
兄エーザウを出し抜いて、盲目の父イーザークから祝福を騙し取った後、
ハランにいるレベッカの兄ラーバンの所へ逃げる。
ラーバンのところでの幾年にもわたる労働、そして二人の娘たちとの結婚、
下の娘ラーエルとの間に生まれたヨーゼフへの偏愛。
その偏愛とヨーゼフ自身の思い上がりのゆえに、
ヨーゼフはその異母兄たちによって空の井戸へ投げ込まれた後、
そこに通りかかった隊商に売り渡され、かれはエジプトへ連れてゆかれる。
そしてファーラオの廷臣ポーティファルの家に買い取られる。
そこで主人の寵愛を得て、その家の管理人になるが、その主人の妻との一件で投獄される。
しかしファーラオの夢を解いたことをきっかけに
ヨーゼフはエジプト全土の経済の管理を任されることになる。
ヨーゼフはその後、兄弟たち、そして父ヤーコプをエジプトに呼び寄せる。
そしてヤーコプの埋葬となる。
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トーマス・マンはその『ヨーゼフとその兄弟たち』において、
筋の展開に関して言えば、創世記の中で叙述されている人間関係や事柄を故意に曲げることはせず、
登場人物の発言をも、かなりそのまま取り入れている。
しかしながら、創世記の後半の部分の筋書を基本的には忠実に辿っているとは言え、
わずか数十ページの言わば梗概のような話の個々の部分に関しては、かなり大胆に敷衍している。
創世記においては簡潔に述べられているところの諸々の事件の背景を、格段に詳細に描写し、
例えばヨーゼフとムートとの一件はそれだけで、
かなりの分量のひとつの纏まった物語になる程までに拡大されている。
そして、個々人の発言にしても、
創世記の中ではそれが余りにも簡潔なゆえに、登場する人間の姿は、
個人を感じさせないほど朦朧としているが、
マンの作品においては、登場人物の言葉数は遥かに多く、
また創世記には見られない新たな人物の発言も混じる。
さらに、作者の代弁者たる語り手も、
物語の進展に沿って、そしてしばしば、各人周知の話のゆえにか、筋の先回りをしつつ、
登場人物の行為について克明に注釈を施している。
そうすることによって作者はその人間を、それどころか、
その全人格をあらわにすることをこの物語の中で試みている、とさえ言える。
そして、とりわけ注目すべき点は、
旧訳聖書の中では、ヤーコプやヨーゼフの人生の随所に、神の恵みがあらわれ、
それなりの働きや影響を及ぼしているように読み取れるが、
トーマス・マンの作品の場合には、
登場人物の発言の多さもさることながら、個々人の心理描写が詳細になされる。
そして登場人物たちの内面が深く掘り下げられ、神による恩恵をも人間の責任に、
特に、人類の代表として自覚を持ったヤーコプやヨーゼフの内面の問題に帰せられる。
この神の存在をも取り込んだ「人間存在の根源と未来の探究」という姿勢が
『ヨーゼフとその兄弟たち』の際立った特徴である。
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人類の発生当初からの歴史を考えれば、
たしかにわれわれとヨーゼフとの距離はさほどのものではなくなる。
当時は、ヨーゼフの教師のエリエーゼルが、幾世代も前のエリエーゼルと自己とを同一視するような、
あるいは 4×365=1460年目にして、やっと天文歴と再び一致するという、雄大なエジプト歴のもとで、
あらかたの世代の人々は、暦の上での季節と自然の季節の大きなずれのなかで、
鷹揚に時を過ごしていた時代なのである。
それゆえ、ヨーゼフのエジプト滞在の時期が紀元前2世紀頃の話なのか、
それとももっと以前のアメンホーテプ四世の時代(紀元前14世紀)なのかも
― おそらくこの物語の作者は、じゅうぶん承知の上で両者を融合させたのであろうが ―
些末な問題になってしまう。
しかしその一方で、一個人の内面に、
じつは、数千年、数万年の歴史の蓄積が層になって沈殿している。
それを、作者トーマス・マンは、なかんずく「ヤーコプとヨーゼフの親子の内奥」に探ろうとした。
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この物語が、全体的な流れとして、ヨーゼフについての物語であることは疑いを容れないであろう。
かれはヤーコプの偏愛によって育まれ、
母親ラーエルゆずりの美貌と生まれつき備わった才覚によって頭角を現わした。
もちろん若い時にはそれを鼻に掛けるところがあり、
その傲慢な態度と盲目的な判断のゆえに空井戸に落とされたわけだが、
このことはヨーゼフにとって精神的に貴重な体験となった。
ヨーゼフをその兄たちから買い取り、エジプトの高官に売りつける老イスマエール人は、
あくまで商人ではあるけれども、ヨーゼフにたいして並々ならぬ愛着を示した。
かれは別れ際にヨーゼフに、
「ごきげんよう、これで三度目だ! というのはもう二度も言ったから、
そしてひとが三度も同じことを言うのは、よくよくの場合だ。」
と言うが、この言葉からは老人の心底からの愛情がよくうかがい知られる。
そしてヨーゼフは実直者の執事モント=カウの信頼、
さらに、高貴な精神を持った主人ポーティファルの信頼をもかち得る。
ヨーゼフが主人の妻ムートとの一件で申し開きのできない立場に追い込まれたとき、
廉直なポーティファルは、ヨーゼフをして裏切り者とは見なさず、
なお信頼を寄せていたがゆえに、極刑に処することなく、
それなりに過酷な刑ではあるけれども、計ってツァーヴィ=レーの監獄へ送ったのであろう。
ヨーゼフの持つ人間的魅力もこれには大いに与っているわけだが、
のちにヨーゼフの家令になる典獄のマイ=ザクメ、
そして時空を超えた究極の存在についてのヨーゼフの見解に共感を示すアメンホーテプ四世、という風に、
かれに好意を持つ人たちとの出会いを通して、ヨーゼフは精神的にも人間的にもさらなる成長を遂げる。
物語はヨーゼフのこのような成長過程を辿って進んでゆく。
この物語は、人類の代表者としての主人公ヨーゼフが、自分の過去と未来を探究する物語であり、
かれを通して自我の成立の過程が呈示され、かれを通して、
精神の確立とは、
― このような過去の深淵に関わる問題においては、
ヨーゼフとわれわれとのあいだに時間的な隔たりがほとんどなくなるゆえ、
これは同時に、われわれの未来の理想的な精神の確立をも意味するものであるが、―
そのなかに神も人間世界も包含されるような
― これは、厳格なヤーコプから見れば、宗教的な高みには未だ至らない、
世俗的な段階にすぎないことにもなりえるが ―
寛大な精神の確立であることが示される。 |
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