1816年9月の末、朝の8時過ぎに、ヴァイマルの旅館「エレファント館」に、
ゴータ発の定期郵便馬車が到着し、三人の婦人が降り立つ。
母親と娘と小間使いとで、その母親らしい女性は少なくとも五十代の終わり、娘も三十代に近いと語られる。
この母親らしい女性が宿帳に「宮中顧問官未亡人シャルロッテ・ケストナー、旧姓ブフ」と記入したことから、
あの有名なロッテのモデルであることに気付いた給仕マーガーを介して噂が広まり、
そのため彼女はさまざまな種類の訪問者に見舞われることになるのだが、
そもそも彼女の方にも意図的にそれを期待している様子が見られる。
馬車の旅の疲れもあり、ベッドに入り2時間ほど眠ると、さっそく
19号室のミス・カズルというアイルランド生まれで、
有名人の肖像を描いて世界を旅行しているスケッチ画家が、マーガーに連れられ訪ねてくるが、
彼女はこの物語においてゲーテあるいはシャルロッテとの内面的な係わりという点では
問題とならない登場人物であり、その取りとめのないおしゃべりはほとんど言及するに値しない。

 その後、こんどはゲーテの秘書のドクター・リーマーが訪ねてくる。
彼は対ゲーテの関係をロッテと共有する人物であり、
彼との会話の中で、シャルロッテの心にわだかまっている問題、
その解決がもしやできるかもしれないと思って彼女はやってきたのだが、それが早くもかなり明るみに出される。
リーマーの方にも、彼女だけが目的で訪ねてきたのではなく、ゲーテのことを話題にして、
場合によっては自分が長年思い悩んできた問題の解決の糸口でも掴めないものかという期待がある。
リーマーはゲーテの価値を無限に評価する、その一方で彼の冷酷無比を訴える。
シャルロッテはこのようなリーマーの念願と不満、自負と無力、社会的地位への空しい足掻きに
いくぶん不快を覚え、また軽侮と憐憫をを感じざるをえない。

 リーマーの次に、哲学者ショーペンハウアーの妹、アデーレ・ショーペンハウアーが現われる。
この容貌は少し劣るが、聡明で才気のあふれた女性は、
最愛の友人オッティーリエに関する打ち明け話を、淀みなく話し続ける。

 そしてアウグストが登場する。彼はいま二十七歳で、あの当時の青年より四歳上である。
シャルロッテはあの夏からわずか四年過ぎただけのような錯覚に囚われるが、本当は四十四年の歳月が流れている。
 シャルロッテがアウグストに、オッティーリエから返事をもらったかどうかを聞くと、
アウグストは、とくに返事を必要としていない旨の返事をする。
これにはシャルロッテは大いに憤慨し、
「あなたは本当に、そしてあなたに固有の資質のために、まったくあなたご自身として愛されているのかどうか」
また、「あの人を愛しているのはそもそもあなたであるのかどうか、あるいは、
あなたは結局ここでもまた単に父親の代理人かつ取次人にすぎないのか」と、
半ばはアデーレの言の受け売りであるが、相手の急所を突く発言をする。

 第七章において、物語は突然ゲーテの心の中に入り、その内面描写に移る。
ゲーテはベットの中で目を覚ましつつあれこれと思いを巡らしている。
かれは「すべて英雄的精神は忍耐の中に含まれている、生きつづけて死なないという意志の中に、」と
あたかもこの物語の作者トーマス・マンとの連帯を表明するような発言をしたり、
あるいは「動物の生涯は短い。人間は自分の状態の反復、つまり老年における青春、青春における老年を心得ている。

 アウグストがシャルロッテからの手紙を持参する。それには、
「ヴァイマル、22日 ― ふたたびお顔を拝見したい ― とても卓越なされた ― 旧姓 ― 」
と書かれてある。
しかしゲーテの話は暫し他のことへと逸れ、そしてかれは急に思いついたように、
自分にも書いたものがある、『西東詩集』のためのものだ、と言って、
「ひとは言う、鵞鳥どもは愚かだと! ― 連中の言を信ずるな、じっさい一羽の鵞鳥が振り返り ― 
私にも後ろを向くよう合図している。』を見せて、
ロッテの今回の申し出を露骨に当てこする。
それでもともかく数日中に昼食会をすることに決め、アウグストに指示をする。

 招待の日の午後、雨模様の中をシャルロッテは義弟夫妻らと共に2時半ごろ、貸馬車に乗り込む。
到着してから、美術の教授マイヤーのおせっかいな助言を聞かされているうちに、
額の上の方の髪がすでに薄くなったゲーテが登場する。
彼女は四十四年の歳月を飛び超えてかつての青年を認識はしたけれども、
時の流れは、自然的衰退ばかりでなく、精神的変化をももたらしていた。
ゲーテの声は昔のままであったが、しかしその顔から演技めいたものをシャルロッテは感じとった。
その表情はたいへん魅惑的なものだったが、
最初の一言からすでにすべてを調整している計画的な回避がうかがえた。
老ゲーテは話をすべて複数形で話し、自分のことも「私たち」と言ったのである。
シャルロッテは自分がゲーテにぜんぜん注目されていない、
それどころかほとんど目に入らない存在であることを思い知らされる。

シャルロッテの果敢な決意をも語り手は打ち明ける、
彼女の心は緊張と期待とに捉えられていたが、ある種類の「調整」にたいして抵抗し、
それを打ち負かすのを少しも断念してはいなかった、と。
 シャルロッテはそもそも、若い時の服を着て、リボンをはずしておくという軽い冗談を企みつつ、
なかば好奇心から、このヴァイマルへ旅してきた風であったが、
今はもはやただ単に過去の青春の思い出に留まっているだけではない。

シャルロッテの攻撃は主にゲーテの倫理的問題性へと向けられている。
つまり、ゲーテの感情体験は、そのときだけのものに過ぎず、
その行為の責任を十分には負わないままに済ますとすれば、
シャルロッテのような立場にある人たちは単なる犠牲者として甘んじなければならない、
このことは人間の倫理に完全に反する、ということである。

ゲーテはシャルロッテに対し自分の立場を釈明して彼女の了解を求め、
シャルロッテは結局はその和解の申出を受け入れ、最後に穏やかな別れの挨拶を述べることになるわけだが、
シャルロッテの具体的な事例を挙げての攻撃に対し、ゲーテは概して抽象的ないし比喩的な説明に傾き、
少なくともシャルロッテにたいし十分に意を尽くしているとは言い難い。
従って、せいぜい言えるのは、シャルロッテは、ゲーテのような芸術生活が有り得ることををいくぶん認めた、
そして一個の人間としてよりは芸術家として許容する気持ちになった、ということぐらいではあるまいか。
なぜなら彼女の諸々の態度から、彼女は相手を人間として理解しようという寛容さ、
人間の弱さにたいするいたわりを持った女性であることは疑いもない事実であるから。
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