Aus: "Schweiz, Baedekers Reiseführer."
Karl Baedeker Verlag, 1989
ハンス・カストルプは、せいぜい三週間の予定で、従兄のヨーアヒム・チームセンを見舞いに、
スイスのダヴォスにあるサナトーリウムを訪れた。
ところが、かれ自身も肺に感染していることがわかり、療養を余儀なくされる。

このサナトーリウムがじつは、死と病気が支配権を握り、
日常世界の秩序や風習から解放された、特殊な世界であった。

ところで、語り手の言によれば、ハンス・カストルプの潜在意識には以前から、
人生の意義と目的とにたいする疑問が潜んでいたが、時代はこの間にたいしうつろな沈黙を続けていた、
とのことである。
まさにそれがゆえに、カストルプはこの世界の虜になり、第一次大戦の勃発によって眼をさますまで
七年間ものあいだ、療養生活を送ることになる。
この、まさに「魔の山」で、もろもろの人間との出会いを通して、
あるいは生理学や解剖学の書物を読み、あるいはひとり考えに耽りながら、
生と死について、愛と肉体についてなど、要するに「人間存在とは何か」を探究する。


互いに対l脈庶的な二人の思想家がハンス・カストルプの教有的環境として登場する。
そのなかのひとりセテムブリーニは当初からカストルプに注目して、
この若者が感情に溺れて道を踏みはずすことがないようにと、理性と道徳を説く。
かれは何よりも理性的態度を重視し、それが人類の進歩に通ずると信じている。
根は臆病で感じやすいが、人柄は温厚かつ善良である。
ただしその思想に底意はない反面、人間にたいする洞察力に少し欠ける。
それでかれの楽観的な思想は論敵のナフタに烈しく攻撃されることになる。
カストルプはセテムブリーニの説教の教条主義的なところに気がついていたのであろう。
セテムブリーニの話が有意義なことは認めても、人間的に信頼を寄ぜるまでには到らない。

ナフタについては、その素姓が、カストルプが出会った人物のなかでただひとり、かなり詳細に描写される。
この天賦の才はあるが、分裂気質で冷徹な男は、人間に内在する残虐さと悪徳と弱点を容赦なく暴露し、
セテムブリーニの信幸する道徳と合理主義と進歩の概念の暁味さを指摘する。
論理のひとつひとつは鋭く、正鵠を得ているとも言えるのだが、
本来矛盾を内包した人間存在の、その一部分だけを抽出し、その全体を眺めてはいない。

二人の議論の果ては決闘となる。
この場でのセテムブリーニの見え透いた殉教者的振舞に対して、ナフタは自己の名誉を保つために自害する。

カストルプもこの事件に居合わせたのであるが、いわば傍観者にすぎない。
だいいちカストルプはなぜ二人に決闘をする必要があったのかを理解していない。
二人の対立は政治的色彩を帯びた単なる思想の対立とカストルプの眼には映っていたようである。

ハンス・カストル・ブは生まれつき受身的な性格だが、その人間形成に関して、二人の思想家に限らず、
その他のサナトーリウムの人たちもいったいどれほど与っていたのだろうか。
規律と服従を重んずる一途な性格の従兄ヨーアヒム・チームセンはむろんのこと、
他人の心の動きによく気を配るロマンティッシュなベーレンス顧間宮も、カストルプに影響を与えた様子はない。
人生の意義と目的にたいするカストルプの問いは、
サナトーリウムに来て以来、その意識の底から浮上しつつあった。
かれは人間の存在について考えをめぐらした。
そして雪の山中で人間の未来を暗示する夢を見、答を掴みかけたわけだが、
眼がさめると、もう夢に見たことはほとんど憶えていない。
そして人間にたいする好奇心も、ついには薄れて、かつてのような怠惰な状態に陥り、
ひとりトランプ遊びに現をぬかす。
ところで、カストルプとクラウディア・ショーシャとの出会い、
および、彼女が連れてきたペーベルコルンとの出会いは、注目に値する。
この三人のかかわり合いのなかで、カストルプの内的資質が露呈され、
この「かかわり合い」が、ハンス・カストルプの「魔の山」における「唯一の体験」である。

マダム・ショーシャの病気の症状は比較的軽い。
彼女は、コーカサスの向うにいる夫と別居しているが、
それは、健康上というよりも、主に、「精神的な理由」に拠るものである。
つまり、彼女は自由を求めて、心の趣くままに放浪Lている。
ショーシャの動作には投げ遣りに見えるところがある。
それで、カストルプは、自由よりも秩序を好み、風習と行儀の良さに馴染んでいたので、
彼女の振る舞いに、初めは、ひどく腹を立てるのだが、
いつの間にか、次第に、その人柄に心引かれてゆく。
ショーシャは、感情に素直に従い、現実の生活を尊重し、
その実際の生活における「人間的」なことの大切さを主張する。
しかしながら、カストルプは、自然な感情が生じてきたのにもかかわらず、
内部疾患のため母親としては不適格な女に気が惹かれるのは、無意味で、理性に反している、
と考えたり、その内心では、当初から、この女と
「心の中だけの秘かな間柄以上のかかわり合いをもつことはできない」という確信を懐いてる。
あるとき、カストルプは、酔いに任せて思い切ってショーシャに近づいてみるが、
「このような夢をもっと早く見ることは、それほどむずかしいことではなかったでしょうに」
と揶揄される。

カストルプとショーシャがはじめて言葉を交した晩のその翌日、ショーシャは旅に出る。
そして、何年か後に戻ってくるのだが、そのときにペーペルコルンという中年の男を伴っている。
ペーペルコルンは、観念を筋道立てて話すことが不得手だが、実務には通じている。
かれは、「感情」が、有体に言えば、女を陶酔させるための男の「欲望」が、
男にとって人生の意義であると同時に義務でもある、と考えている。
情に脆いショーシャは、半ば同情からこの男に従っているのだが(かれはマラリア熱に罹っている)、
一抹の不安も感じていた。
ショーシャが危慎していた通り、ペーペルコルンは、ある夜中、猛毒の入った精巧な注射器で自殺する。
ペーペルコルンは、カストルプとショーシャが実は互いに愛情を懐いていることに気づいたものの、
もはやカストルプと張り合う体力もなく、また自分にとって唯一の拠所であった「感情」の衰えを自覚し、
絶望に陥ったのであろう。
ペーペルコルンの自殺後ショーシャは、サナトーリウムを去っていく。
チームセンは病死し、ペーペルコルンとナフタは自殺し、ショーシャは去っていった。
セテムブリーニはナフタの最期に非常な打撃を受け、心身ともにすっかり弱ってしまった。
取り残されたカストルプは、サナトーリウムの生活にたいする興味が薄れ、無為に時を過ごしていた。
探究は頓挫をきたし、カストルプの精神は危険な状態にあった。

平地に戦火が生ずると、後期到来とばかりに、志願兵として戦争に参加するところを見れば、
このカストルプが陥っていた鈍感・虚脱・無関心の状態は、かれなりの忍耐の仕方だったのかもしれない。

療養所に来る前、まだ平地にいたころ、かれはしばらく自分の志望が定まらなかった。
が、ひとの勧めで造船の仕事に就くことに決め、決めてしまうと、それが自分に適した職業だと思った。
つまり、ハンス・カストルプの内面は、本質的に「運命を甘受する姿勢と義務感」によって貫かれている。

カストルプは「運命」に従い、自分の「義務」として、
物語の最後で、山を下り、一兵卒として戦地に赴いてゆく。
これは、果敢な決意であり、かなり自分の立場を意識した行為であることは認められるが、
サナトーリウムでの探究を通してこのような挙動に出たとは考えにくい。

語り手は、眼に涙を浮かべて、
雨が降りしきる戦場に消えていくハンス・カストルプに別れを告げる。
「われわれはこの物語のために語ったのであって、君のためにではない。
じっさい君は単純だった。しかし結局は君の物語であった。」


くどいようだが、カストルプの性格は、ひとことで言えば、「倫理的」である。
このような人物は、この人間世界の現実を認識した ― むしろ重視した、と言うべきかもしれないが、― 
トーマス・マンの倫理的精神からおのずと生まれてきたものであろう。
この倫理的精神は、元をただせば、かれの生来の秩序志向に起因している。
マン自身、そのような自分の性質を自覚し、そこに含まれている一種のかたくなさに対して、
いくぶん自己批判と反省をしていたであろう。
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