フィレンツェの象徴

ドゥオーモ



Duomo
Santa Maria del
Fiore
Aus: "Baedekers Reiseführer, Florenz."
Karl Baedeker Verlag, 1989
フェラーラ生まれのドメニコ会修道士ジローラモ・サヴォナローラは
1484年以来フィレンツェに住み、91年には聖マルコ修道院の院長となり、教会の改革をめざしていた。
当時のフィレンツェの支配者で、この都市国家の精神的繁栄に大いに与り、
そしてみずから詩人で哲学者でもあったロレンツォ・デ・メーディチは、翌92年に世を去っているが、
この戯曲の舞台は、ロレンツォが死ぬ間際、すなわち4月8日の午後、
場所はフィレンツェ近郊のメーディチ家の別荘、と設定されている。
修道院長サヴォナローラは、ロレンツォとの対話のなかで、
世界と自己とを分析し、その認識によって得た思想を語る。
かつて、トーニオ・クレーガーは「精神の眼の見るところでは、行為はすべて罪悪です」
とおずおず述べたものだが、
サヴォナローラは、「精神は純潔と平和を望む力であり、この精神に対立するものはすべて邪悪である」
と断言してはばからない。
かれは「邪悪なもの」にたいし苦しい憧れの気持をいだいたこともあったが、
一片の同情をすら示してもらえず、すげなく拒絶された。
このときの体験が骨身にこたえたサヴォナローラは、それ以来、
心のなかの人間的葛藤をいっさい断ち切って、純潔と平和をめざす純粋精神の担い手たろうとする。
そして純粋な宗教感情に支配された人間およびその社会を理想として、完璧な神権政治をもくろむのである。
第三幕第五場で、フィオーレはロレンツォにサヴォナローラの過去を語っている。
それはおよそ次のような話である。
 ― 以前、フィオーレが家族とともにフェラーラに避難していたとき、
隣りに人間嫌いの、虚弱で顔の醜い青年が住んでいた。
青年はフィオーレにたいし、不安と嫌悪の入り混った感情をいだいていた様子で、
避けようとしながらも呪縛されてしまってどうにもならない風であった。
フィオーレは好奇心をおぼえ、戯れに気を惹いてみた。
するとその青年が呻きながら愛を告白したので、
フィオーレは驚き、また嫌悪にも駆られて、相手を思いきり突き放した。
とたんに、青年は部屋を飛び出し、その夜のうちにボローニャヘ逃げて、聖ドミーニクスの衣をまとった。 ― 
修道院長自身は、ロレンツォとの対話のなかで、この体験に関して、ただ抽象的に触れるのみである。
もちろん、フィオーレのこのうちあけ話だけでは、
純粋精神をこころざす修道院長の動機が不純なものにされることはまったくない。
しかし、かれが「ロレンツォ・メーディチよ、精神が苦悩のなかで堅固になり、
孤独のなかで偉大になること、そして女を屈服させる力として帰還すること、それは起こりうる」
と言うとき、そしてまた、大聖堂でのかれの説教のなかに、あるいは、
ロレンツォに会う直前にフィオーレと交わした会話のなかに、挟まれる「売女」
「すべての怖るべきものの母」「悪魔の好餌」「魔女」といったフィオーレに対する罵言雑言を思い起ごせば、
サヴォナローラの理想の裡に、個人的な復讐の念が奇妙に混在しているのを認めないわけにはいかない。
サヴォナローラは、傑出した人物のひとりであるにはちがいないが、
ロレンツォは、いみじくも、「あなたがフィレンツェで偉大になったのは、
まさにこのフィレンツェがあなたを主人として受け入れるほど、
それほど自由で、芸術に口が奢っているがゆえに生じたにすぎない。
もしそうでなかったら、あなたは引き裂かれてしまうところだ」と言う。
するとサヴォナローラは、この時代のフィレンツェのいわば精神的雰囲気のゆえに、
自分は、いま権勢を手に入れつつある、という一面もまた紛れもない事実であるのに、
しかも、少し前には、認識の苦悩を知らない者たちを非難したばかりであるにもかかわらず、
そういうことを「わかろうとは思わない」と、
自分は時代を超越した存在であり、「燃え上がる矛盾」であるという特権意識からか、
あるいは誇大妄想のゆえにであろうか、自説に不都合なことについては認識を断固拒否するのである。
ロレンツォは、自分の死が迫って来たのを感じ、修道院長に恩寵の条件を間う。
すると、ヴォナローラは三つの条件を挙げる。
ロレンツォは二つ目までは承知するが、最後の、三つ目の条件である「フィレンツェの解放」が、
まさに「生」のそのものの否定を意味することを悟り、激昂する。
しかしその瞬間、ロレンツォは仆れる。
その直後フィオーレが姿を現わし、修道院長に対して、
「あなたが吹き起こす火はあなた自身を焼き尽くしてしまう」、
虚無を渇望することをやめるように、一介の修道士の立場に留まるように、と警告をするが、
修道院長はひとこと、「私は火を愛する」と応えただけである。
この象徴的な「火」の意味するところは、サヴォナローラの胸中で燃えている火のことであり、
美術品店から突き出されたヒエローニムスが夢見た火、
すなわち虚飾に満ちた外界を浄化する火のことであろう。
しかし、同時にこの「火」は、
まもなくかれのために用意されることになる火刑台の火のことではなかっただろうか。
つまり、サヴォナローラは心の隅で自分の理想の、というよりもむしろ幻想のむなしさに気づきつつあって、
それゆえに発した覚悟のことばであったのかも知れない。
ロレンツォの死後、ともかくサヴォナローラは、束の間のはかないものであれ、
こうして権力を手中に収めることにはなるのだが、
かれはロレンツォとの対決のなかで、次第に自己の内面の分裂と矛盾を露呈し、
それとともに、ロレンツォもこの点を突いているが、きわめて偏狭な人間であることが明らかになる。
むしろ偏執狂的様相を顕わしてくるとさえ言える。
そして、これからサヴォナローラの身に起こる暗い運命を暗示する
「かれは自分の運命のなかへ去ってゆく」というト書きで、この戯曲の幕は閉じられる。
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