Als er sich an diesem Arbeit machte, beabsichtigte Thomas Mann wahrscheinlich, die wachsende Verfeinerung der vier Generationen der Familie zu dem Hauptthema dieser Erzählung zu machen. Das vollendete Werk unterscheidet sich aber ziemlich von dem geplanten. Was für einen Einfluァ hat diese Veränderung auf den organischen Zusammenhang der Personen in dem Roman ausgeübt?
Die erste Hälfte des Romans ist die Geschichte der heiteren und arglosen Tony. Allmählich wird aber die Schilderung Thomas Buddenbrooks, der in einen inneren Konflikt gerät, zum Mittelpunkt der Erzählung, während seine arme Schwester Tony an die zweite Ehe denkt.
Thomas eindringliches Schopenhauer-Erlebnis wird bald von seinem alltäglichen Leben überschattet, so muß doch Thomas danach innerlich zum Tode bereit sein, denn er hat schon vorher über Leben und Tod nachgedacht, und seine innere Einstellung wollte sich gerade gestalten. Mit dem Tod Thomas Buddenbrooks -- dem Anschein nach abscheulich oder lächerlich, doch im Grund heroisch -- ist dieser Roman inhaltlich und im wesentlichen zu Ende .
Dem Spätling Hanno fehlt es an Lebenskraft, eigentlich auch an Lebenswillen. Er ist eine symbolische Gestalt. Es scheint, daß Thomas Mann schon vor dem Schreiben dieses Werkes eine solche Gestalt geplant hat, und ihr eine wichtige Rolle für den Schluß der ganzen Geschichte zuteilen wollte. Aber im vollendeten Roman haben Tony und Thomas alle Absichten des Dichters betroffen, und sind wirkliche Menschen geworden. Dagegen ist Hanno Buddenbrook vom Anfang bis zum Ende eine Gestalt ohne Wirklichkeit geblieben. Es könnte ein unbewußter Ausdruck des Lebensbejaers Thomas Mann selbst sein, daß er Hanno das Leben, die Seele nicht eingeben wollte oder konnte.
リューベック、ハンザ同盟都市の興隆を窺わせる航空写真

Das Photo: Lübeck. Luftaufnahme: aus "Deutesche Geschichte und Kultur"
Max Hueber Verlag, Ismaning bei München, 1972

このページ以降の和文のコメントは、上記ドイツ語文のレジュメの逐語訳というわけではありません。)

トーマス・マンはそもそも、この作品に取りかかったとき、神経質なハンノーにだけ、
それからせいぜいその父親トーマスに関心をもっていたにすぎない。
彼は自分の家族の歴史を文学的に手を加え、拡大し、そして少年時代の自分自身の体験を織り込もうとした。
その際に彼は、おそらく四代にわたる家族が次第に繊細になってゆく過程を、
この物語の主題にすることを意図した。
完成した作品はしかしながら、計画されたものとはかなり異なっている。
いったい、このような変更は、
この長編小説の登場人物たちの有機的連関に、どのような影響を及ぼしたのであろうか。
この小説の前半は、
「ブデンブローク家の娘で、単純素朴で闊達なトーニィの、愛と結婚の顛末である」
と言うことができる。
トーニィは単純で素朴な人間たちに属しているが、しかしかの女は、自分の責任を自覚し、
事がしゅったいしても、ひるむことなく、果敢に行動する。
そして自分の辛い経験にも、毅然として耐える。
かの女の判断は、必ずしも客観的な姿勢のものではなく、また、的確なものでもないけれども、
その健気な態度は、ひとを感動させる。
トーニィが再婚を考えているころ、兄トーマスの心の中では、内面の葛藤が、続いていた。
それは、自分は「実際的な人間か、それとも繊細な夢想家か」という葛藤である。
そして、このトーマスの内面描写が、徐々に、この物語の中心に位置してくる。
あるとき、トーマスは、強烈なショーペンハウアー体験をする。
が、この体験は、かれの煩雑な、日常の生活の中で、まもなく、覆い隠されてしまったかに見える。
しかし、かれの現実の、しかし外面の生活の上では、確かにそのように見えるけれども、
この体験のあとの、かれの心の中では、すでに、「死にたいする覚悟」が出来ていたに違いない。
というのも、かれは、このときまでに幾度か、生と死について、あれこれ考えを巡らしていたし、
かれ自身の「内的な姿勢」は、まさに形成されつつあったのであるから。
そのトーマスが、たかが「一本の歯」が原因で、いかにも笑止な死にかたをする。
しかしこのことも、見掛けはそのようではあるけれども、
かれは、必ずしも自分の天職ではなかったかもしれない商人の仕事に、この死の際まで耐え通した、
そう考えれば、かれの死は、じつは、英雄的な最期、と見なすこともできるかもしれない。
いずれにせよ、物語は、トーマスの死をもって、事実上、終結する、と言っても過言ではない。
一家の末裔のハンノーはチフスにかかって夭折する。
かれは生命力に乏しい少年であり、そもそも、生きる意志に欠けていた。
かれは、この没落の一家を描いた物語における、象徴的な存在である。
トーマス・マンは、この作品の執筆に取りかかる前に、すでにこのような人物を構想していた。
そして、その人物に、この物語全体の締めくくりのために、ある重要な役割を与えよう、と思ったらしい。
しかし、出来上がった小説は、その成立の過程において、作者の意図を凌駕し、
トーニィとトーマス、この二人の方が、「活きたナマの人間」となった。
それに反してハンノーは、終始、現実性を伴わない人間像、にとどまった。
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