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Buddenbrookhaus
in Lübeck 1981
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物語は無邪気で快活そのもののトーニィの出現で始まる。
彼女はその波乱に富んだ苦難の一生を、敢えて言えば、一般社会の人間としては未成熟なまま、
そして決して挫折することなく、その単純素朴な振る舞いで貫き通す。
この物語の少なくとも前半はこのアントーニエ・ブデンブロークの物語と言っても過言ではない。
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トーニィは十五歳になると、ヴァイヒブロート女史の経営する寄宿学校に入り、
何年かの幸福な少女時代を過ごす。
しかし、ある6月の夕方、ハンブルクで仲介業を営んでいるグリューンリヒという男が
彼女の前に現れたときから、その苦難の人生が始まる。
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グリューンリヒは彼女に求婚する。
父親はこの話を進めてみたいと思うが、娘は気が進まず、次第に生気をなくしてくる。
それで娘はトラーヴェミュンデの水先案内人に預けられることになる。
そこで、水先案内人の息子で医学生のモルテンに出会い、初めて特別な感情を抱くことになる。
モルテンもトーニィに共感をおぼえ、二人は幸福な夏の幾日かを過ごす。
しかしながら、男と女のあいだに自然に発生したこの幸福な感情は、
十九世紀末という当時の階級社会のもとでは、このような互いにはっきりと身分のちがう者同士の間柄ゆえ、
容易に、束の間の、極めて淡い性質のものになりえる。
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この二人の関係は、かのグリューンリヒによって断たれ、形の上では、トーニィが、半ば強制的に、
グリューンリヒと結婚させられることになるわけで、
彼女は、ブデンブローク家の存続と商家としての利益を優先して、
自分のモルテンにたいする個人的な感情を押さえ、
我が身をすっかり犠牲にしてしまった風に見えはするが、じつは、必ずしもそうではない。
というのは、ここにトーニィの意志が存在しないわけでも、
また彼女の気持ちが完全に無視されているわけでもないからである。
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もそも、その気になれば、モルテンと一緒になる可能性は皆無ではなかったのに、
彼女は、そうはしなかった。
つまり、トーニィにとっては身近な現実の方が重要なことであり、
そしてそのような自分にとって親しい現実に即して行動することが
また彼女には相応のことであった、とも言えるのである。
このことと相関関係にあることだが、
このトーニィにとっての岐路において、一番大きな役割を果たしているのは、
その最後のときの、彼女なりに健気な、決断である。
父親との別れ際、「『サヨナラ、パパ . . . 私のパパ!』
それから彼女はうんと声を落としてささやいた。
『これで私に満足ですか?』」
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ところが、二人の結婚ののち、数年を経ずして、
もともと危ういところのあったグリューンリヒの経営は破綻を来す。
あの華やかに行なわれた結婚がもう既に、現実の反映ではなくして、
じつは欺瞞に包まれていたものであったことが露見する。
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わが娘の身を案じて、ついに、ある決意をもって訪ねてきた父親に、
トーニィはすすり泣きながら、実状を打ち明ける。
しかしその涙が涸れるまで泣きつくすと、濡れたハンカチを手に、こんどは、憤然として言う、
「四年間 . . . まあ! あの人は、晩に、ときおり私のそばに座って新聞を読んでいた、
この四年の間 . . . !」 |
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トーニィの父ヨーハン・ブデンブロークが死ぬ。
語り手は「神と十字架にかけられた人に熱狂的な愛を抱いていた亡き領事は、
その一族で最初に、非日常的な、非市民的な、微妙な感情を知り、
そしてその感情を育んだが、かれの二人の息子たちは、このような感情の自由でかつ素朴な表出に対して
恐れて、後ずさりをしたブデンブローク家の最初の者たちのようにみえた」と注釈を加えている。
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トーニィは、「結局そうは言っても、やはりそうなるべきね。
というのも、なにより肝心なことは、私が再び結婚すること、
そして離婚した女として、もうこれ以上、ここで寝そべっていたりしないことですもの . . . 」
そう言って、
こんどは、ミュンヒェンのホップ商人ペルマネーダと再婚するが、
彼女にとってはじつに不運なことに、またしても、この新たな相手との間にも、破綻が生じてしまう。
しかしそれでも頭が単純なゆえにか、トーニィは、うちひしがれない。
自分の問題は自分で処理すべく、弁護士のギーゼケ博士に相談し、二度目の離婚となる。
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商会の存続と個人的感情との関係について言えば、トーニィにおいては、この両者の対立はない。
彼女は挫折とは無縁の性格だが、内面の深刻な対立といったものにもまるで無縁である。
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このようなトーニィとは違って、兄トーマスの内面においては絶えず葛藤が続いている。
かれの心のうちでは、現実の生活の意識と個人的な感情とが、対立している。
トーマスは、そのことに対し、かなりの恐れを抱いている。
つまりかれは、心中のこの対立の均衡が、いまにも崩壊するかもしれない、
しかも、どちらの方へ傾いて崩れる恐れがあるのかを、十二分に感じている。
それでかれは、それに抵抗すべく、みずから承知のうえで、自分の能力以上に無理をし、
それがために、精神的にも、肉体的にも、疲労困憊の状態にある。
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いっぽう、トーマスの弟クリスティアンは、いわば、生活能力のない道化者で、
自己の存在と外界との不一致に、いらだち、苦しみ、悩み続けている。
その観察力に鋭いところがあるけれども、有り体にいえば、単なる神経病患者である。
かれの関心はもっぱら自分のことにだけに向けられ、
とくに自分の身体上の欠陥には、必要以上に深刻に、思い煩い、
それがまたかれの苦しみを倍加させる。
要するに、かれはデカダンスに溺れたディレッタントの域を一歩も出ていない。
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トーマスは、商人としてこの世の中を渡ってゆくには、
いまひとつ、実務的なことに関しての洞察力と強靭さに欠ける。
ヨーハン・ブデブローク商会が、もう明らかに、かつてほどの繁栄を示さなくなってくると、
かれは、弱気に、自分の幸福と成功の終焉の兆しと取り、
そもそも、自分は、実際的な取り引きなどに向いた人間などではぜんぜんなく、
ただ単に、繊細な夢想家にすぎないのではないか、と自問をする。
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トーマスは、挨拶回りに、息子のハンノーを連れてゆき、
おもて向きは、自信たっぷりに、愛想のよさを、一軒一軒に示してゆくけれども、
そのひとつひとつが終わるごとに、口数はめっきり減り、
顔は蒼白になってゆくのを、かれのひとり息子は観察している。
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トーマスは四十八歳にしてすでに、死の接近を感じ始める。
この、世を去るということが、「もはや、かなたの、理論上の、取るに足りない必然性としてではなく、
目前に迫った、手の届くもの」に見えてくる。
ところが、直接その準備をする必要が生じてきたいま、自分の精神は、死に対してぜんぜん用意ができていない、
そのことが、はっきりとわかった。
それまでは、ただ漠然と、なんとなく、「自分はこれまで先祖の中に生きてきた、
将来は子孫の中に生き続けるだろう」と考えていた。
しかし、息子は、父親の希望とはまるで異質な方向へと成長している。
それを目の当たりにして、父親トーマスのかすかな希望は、完全に、幻滅と絶望とに変わる。
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そのような折、かれは、ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』を手にする。
かれは、つい引き込まれて、それに読み耽る。
とりわけ「死とは何か?」について書かれた、ある長い一章に昏倒する。
しかしそれにも拘わらず、夢の中での感動は、往々にして、目が醒めると、
日常的な諸事によって、たやすく消されてしまうがごとく、
かれは、次の日には、前日の精神の逸脱に、少々恥じ入り、
二週間も過ぎると、もうすべてを、きれいさっぱりと放棄してしまう。
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そのようなトーマスが、あるとき、たった一本の歯の痛みが原因で、じつにあっさりと、この世を去る。
かれの妻のゲルダは、その死にざまに、あらわに不快感を示す。
「一生のあいだ、小さな糸くず一本でもつけたのを、ひとにみせはしなかったのに . . .
最後がこんなふうにならなければならないとは、まるで笑止で、卑劣なしわざだわ . . . !」
と、夫の亡骸に非難をあびせる。 |
トーマスの息子のハンノーはこのとき、まだ生命を保ってはいるものの、
この父親トーマスの死をもって、この、ある家族の物語そのものの生命は、
事実上、途絶えてしまったように見える。
ブデンブローク家の末裔ハンノーは、生来、からだが虚弱で、病気がちではあったが、
結局、チフスに罹って死ぬ。
それとともに、この由緒ある商家の家系は絶たれる。
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