田中先生が、下宿を世話してくれていた。

そこは、利根川の縁に立つ、木造のアパートの2階だった。

ところが、部屋は、北向きの、たったの三畳間で、
とりあえずと思って運んだ布団と、本の入ったみかん箱が五、六個と、
中学校以来の小さな机を置くと、もう本当にいっぱいで、
あとは何も入らないどころか、ひと一人寝るのがやっと、であった。

それでも、日々、せせらぎの聞こえる、その小部屋に、1年半ばかり住んだ。


 その当時は、近所に、古家を、友だちと共同で借りている学生がいた。

ときに、仲間うちの飲み会に誘われて、一升びんを持って訪ねていった。

またあるとき、銭湯で湯ぶねにつかっていると、
目の前に、小生の試験に落ちた学生が現れた。

それで、その湯舟の中で、再試験の相談に乗った、ということもあった。


 この赴任した年には、F先生が翌春に退官するというので、
さっそく、後任人事の話し合いになった。

ところが、田中隆尚先生は、心情的には、よく理解できるが、
しかし、いささか不手際な、ないしは強引な主張を、展開してしまった。

この田中先生の主張が、わざわいし、F先生との間で、かなり激しい議論の応酬となった。

しかもこのことは、科外のあらかたの教官たちに、知れわたることにもなり、
小生と、一ヵ月ほど遅れて、ボロ車で赴任してきた同郷のTとは、
外部からの、絶えざる攻撃にさらされる羽目になった。

そのおかげで、G大学教養部の、その実態を、
1年目にして、ぞんぶんに思い知らされた。


 その後の二十年間は、教養部内のことに限ってしまうと、
いまになって思えば、またたくまに過ぎた、感じがする。

取り立てて、書き記すほどのことも、特に思いつかない。

留年中の学生が、五階の窓から飛び降りて、顔が福助のように拉げた、のに出くわしたこと、
U先生の試験での、カンニング事件、W氏に関するスキャンダル、その他、
ともかく、あまりろくなことはなかった。

個人的にも、トラブルというか、苦労があれこれあって、追いまくられた。

が、これはこれで、いささか骨身に沁みたけれども、
貴重で有意義な体験、と言えなくもなく、
悔いることは、全然ない。


 このたびの教養部の解体は、瓢箪から駒のごとく、
あらかたの思惑を越えて、決まってしまったようだ。

これから先のことはわからない、が、よい結果、ではなかったのか。

近ごろは、とみに「ティーカップの中の嵐」の程度が、ひどくなってきた。

このままでは、つまるところ、水と油か、犬と猿の、寄合所帯のゆえにか、
たがいの反目が、なおも悪化する、そんな様相を呈していた。


 部が崩壊することになれば、その構成員は、文字どおり、四散する。

そして、それぞれの行き着いた学部で、
気持ちも新たに、研鑽を積むひと、小生のように、相も変わらず馬齢を重ねてゆく者、
人さまざまに、わが道を進む。

とまれ、我々が、お互いに、
世界観や、価値観の、まるで違う相手とは、
あるいは、生理的に嫌悪を覚える連中とは、別れ、
束の間、ではあろうが、解放感を味わい、そして、わが身を振り返る、
というのも悪くない。 
< 前のページ