し ら が ざ る
              田 中 隆 尚
「立奈加先生、ちよつとおねがひがあるんですが。」

 午休に卓上の電話がなつて、さういつた。教務主任の伊万位教授
のこゑであつた。

「ええ、なんでせうか。」

「ちょつとお目にかかつて、五分か十分お話したいんですけど、こ
れからうかがつてよろしいでせうか。」

「ええ、どうぞ。」

 伊万位教授の部屋は理科棟にあつて、文科棟にある、わたしの部
屋まで五分とかからない。まもなく合圖をして、小柄で丸顔の伊万
位教授がはいつてきた。わたしはすぐ、わたしの席のむかひの、壁
ぎはの長椅子に請じた。

「さつそくですが、じつは申しあげにくいんですが、宇智多先生の
ことですが。」

 宇智多先生、……これはなにごとであらうかといふ想念が一瞬わ
たしの頭のなかにひらめいた。宇智多先生は一昨年ドイツ語科の主
任のわたしが依頼した非常勤講師である。しかし高等學校も大學も
ともにわたしの二十年以上の先輩であり、學界の元老格の人である。
しかし他の大學は非常勤講師の年齢制限のため講義ができず、たま
たま制限のないこの學校に、百五十キロもある自宅から、とまりが
けで出講するやうになつたのである。しかも宇智多先生には醫學生
ををしへたいといふ希望があり、一方わたしのはうでも、醫學生に
は教育に熱心な人をつけたいといふ願望をもつてゐて、宇智多先生
が適任だといふことをきいて、醫學生のために請じたのである。そ
の宇智多先生になにごとがおきたのであらうか。

「宇智多先生の試驗のことなんですが、……カンニングがおほいの
で、とりしまつてくれといふ、學生からの投書があつたんです。」

 不正行爲、これはこまつた問題だが、なかなかあとをたたない。
學生はなにかといふと自治を標榜し、またその過大の権限をもつて
ゐるが、かういふ問題になると、有名無實である。わたしの試驗で
もときどきみつかつて、處置にこまることがある。なにも宇智多先
生の試驗にかぎつたことではあるまい。

「それはどういふんでせう。だれの試驗でもあるんでせうが、宇智
多先生の時間にかぎつて投書がくるとは。」

「いや、宇智多先生の時間には半數以上の學生がカンニングをしは
うだいにしてる、あれでは試驗の意味がないだけでなく、不正行爲
をする意志のない、あるいはしたくもできない學生が損をするだけ
だ、大學當局は試驗をするのなら、不正行爲をとりしまつてもらひ
たいといふんです。」

「わかりました。」

「投書は大學當局にとりしまつてくれとありますがね。これは教務
委員で相談した結果、教授曾にもちだす問題ではないので、ドイツ
語の主任の立奈加先生にご相談にあがることになつたんです。つま
りカンニングさへおこらなければ問題はないわけで、ドイツ語教室
のなかで、なんとかしていただけないかとおもひまして。」

「よくわかりました。今度の試驗からさつそくなんとかいたしませ
う。」

「よろしくおねがひします。」

 伊万位教務主任はさういふと、すぐ腰をあげた。その小柄のうし
ろすがたが扉からきえると、たつたいま「なんとかいたしませう」
といつたことばが案外具體的にはどうしたらいいのか、わからぬ問
題として心におもくのしかかつてきた。宇智多先生がまだ經驗をつ
まない、わかい講師なら、いまの教務主任のことばをそのままつた
へて、不正行爲防止の對策を自分で講ずるやうにいへばよからう。
しかし宇智多先生にはそれがいひにくい。そんならどうしようか。
さうだ、自分が補助監督といふ名目ででてみよう。ただ宇智多先生
の時時間は五つあり、そのなかにはわたしの時間とおなじときのも
のがあつて、全部監督するわけにはゆかない。事務員にたのみたい
ところだが、不時の場合ならやむをえないが、この場合むりだ。さ
うだ、まじめで、きびしい加末他講師にたのまう。さうおもつて加
末他講師の時間をみると、ちやうどわたしのでられない時間はあい
てゐた。

「加末他君、ちよつとおねがひがあるんだけど。」

 わたしは加末他講師の部屋にはいつて、さういつて、教務主任の
ことばをつたへた。

「僕も教務の人からきいて、なんとかしなくちやいかんとおもつて
たんですが。學生もずゐぶんおもしろいことをするんですね。」

「おもしろいことつて。」

「先生はご存じなかつたんですか。」

「教務主任はいまいつた要求條項とその理由をいつただけで、その
ほかはなんにもいはなかつたからね。」

「さうですか。いや、學生はなんでも、用務員が夕方教室の戸じま
りをしたあとに、教室にしのびこんで、窓の錠をまたはづしておく
んださうです。」

「なんだね、それは。玄関はまだあいてるとおもふんだけど。」

「玄関は表も裏も研究室の教官が最後にかへつたあとしめますから、
六時になつたり、七時になつたりするでせう。しかし教室のはうは
最後の授業が四時十分にをはりますから、用務員はそれからまもな
く窓の錠をかけてしまふわけです。玄関はそのあと二三時間あいて
ることになります。」

「さて教室の錠をあけといて、どうしようといふのかな。」

「翌朝六時か七時ごろ窓から教室にしのびこんで、はやい順に窓が
はか、廊下がはのうしろの席からとつてゆくんださうです。さうし
といて、それぞれノオトをみるなり、だれかが解答をかいて、まは
すんぢやないでせうか。」

「まへの日に錠をはづすのは、たとひみつかつても、なんともおも
はれないだらうが、當日まだくらい六時ごろから窓からはひのぼつ
てるすがたをみられたら、いくらなんでもあやしまれるね。」

「いや、宿直が何時ごろおきるか、だいたい見當をつけておいて、
あかりがまだつかないうちにくるんぢやないですかねえ。」

「前期の九月の試驗のときなら、なんでもあるまいが、いまこんな
にさむくて、煖房もない部屋でじつと三時間も三時間もこしかけて
たんぢや、ひえきるんぢやないかな。」

「いや、案外かれらはまへの日から午辨當と稱して辨當をつくつて
もらつて、席を占領したうへで、顔をあらつたり、朝食をくつたり、
おまけに糞もしたりして、けつこう有効に時間をつかつてるんぢや
ないですかね。」

「魔法瓶に湯か酒でもつめてきて、あつたまつてるかね。」
「さあ、それは知りませんがね。まだわかいですからね。けつこう
苦にしないでやつてるんでせう。」

「勉強するはうがよほど苦にならないとおもふんだけどね。」

「そこがどうも。」