利根川の水はまだ雪しろにならず、冬川のなごりをとどめてすく
ないが、しかも瀬の音は岸べの家々に、往来にひびいてくる。しか
しここの川岸にたつオテル・ロアイアルも、その玄関の扉のなかに
はいれば、厚ガラスにさへぎられて、きこえてこない。ただ窓をと
ほして、その流が音なくながれてゐるのがみえるだけである。

 宇智多先生が豫科をさつて四年の歳月がながれ、けふは昭和五十
九年三月二十七日であつた。厩橋醫科大學の卒業式がこの日十時か
ら本科の講堂でおこなはれ、そのあと十二時から市内のオテル・ロ
アイアルに席をうつして學生による謝恩曾がもよほされる。宇智多
先生は鯉とのわかれををしんだあの日から豫科にすがたをあらはし
たことはなかつたが、一年に一度はかつての教子の謝恩曾に列席す
るために厩橋にきてゐた。さうして今年度の卒業生にもまねかれて
ゐて、これが宇智多先生にとつて最後の謝恩曾となるのであつた。

 わたしは開曾の十二時より二十分まへにオテル・ロアイアルにゆ
くと、卒業生と父兄、それに本科の教官たちはすでに卒業式のおこ
なはれた本科の講堂から貸切バスでホテルにうつつてゐて、一階と、
曾場の二階の控室に三々五々にたむろし、役をふりあてられた下級
生があるいは案内し、あるいは受付でそれぞれ役割をはたしてゐた。

「あ、立奈加先生、よくいらしてくださいました」と、案内係の學
生がわたしをみていつた。

「あ、しばらくだつたね。」

「先生、けふは宇智多先生もいらしてくださるさうです。」

「ああ、よかつたね。先生もたいへんだけどね。」

「そのやうです。さつきすこしおくれるつて、奥さまから電話がか
かつてきました。」

 わたしのはうでも數日まへに宇智多先生の自宅に電話をかけて、
ことしも出席するつもりだといふことをきいてゐたが、そのあと夫
人から電話をうけて、主人はなんとしてでもゆくといつてゐるが、
自分は心配だ、ゆかないでくれればいいのだがといふことをきいて
ゐたのである。そこでわたしからもう一度宇智多先生に電話をかけ
て、おいでになるのなら、どうか上野十時二十分發の特急におのり
ください、さうすれば厩橋驛でおむかへにでてゐるやうにしますか
らといひ、またその日は厩橋でおとまりくださいといつて、二つの
おねがひをしたが、そのいづれもききいれられなかつたのである。
こんな事情があつたので、いまであつた學生が案内係だつたので、
わたしはそれを話してつけくはへた。

「先生のことだから鈍行でこられて、そのうへなにかでおくれたん
ぢや、何時になるかわからないけど、こられたら、ずつと注意して
ゐてくれたまへ。さうして曾がをはつたら、もう一度ここにとまら
れるやう僕が話してみるが、もしだめだつたら、車で驛までおおく
りしてくれないか。」

「大丈夫です。僕たち車をもつてるものがゐますから。」

「それはよかつた。おかへりは僕とはいつ、はぐれるかわからない
から、たのんだよ。そしてもしとまられるやうだつたら、それにこ
したことはないから、このホテルにでも、どこにでも案内してくれ
たまへ。さうして僕にいつてくれたまへ。」

 案内係はさういふ係にされただけに、それをすぐ理曾して、みづ
から復唱したから、わたしは安心して二階にあがつた。二階はもう
かなりの人ごみで、本科の教官がむらがり、そのなかに豫科の教官
がぽつりぽつりといりまじつて、あるいは挨拶し、あるいは受付に
いつて、出席の署名をして、女子學生に名札を胸につけてもらつて
ゐた。

「あ、立奈加先生、よくいらつしやいました」と、ひとりの卒業生
がわたしのまへにたつた。

「しばらくだね。おめでたう。」

「ありがたうございます。このあひだ石田先生にあひましてね。二
年先輩ですけど、得道僧の。」

「得道僧」

「ほら、あの、……宇智多先生の試驗でカンニングして、頭をそつ
た。」

「ああ、あの七人の得道僧の」

「そのうちのひとりの石田さんにあつたんです。先生が謝恩曾にこ
られたらよろしくといつてゐました。七人はあのとき一年おくれま
したが、本科ではみな順調で、をとどし卒業して、いまはみな立派
な醫者になつてゐます。」

 そこに本科の田鹿杵教授が顔をあらはした。戦争まへまだ高等學
校にはいらないまへから、わたしは知つてゐて、高等學校も大學も
科はちがふが相前後して卒業し、そのうへおなじ厩橋醫科大學にき
て、生理學を擔當してみる。かつて兵隊靴はいて活歩してゐた青年
がいまは髪がなかばない。

「ああ、立奈加君、わざわざきてくださつて。」

「いやなにも。ところでおたがひに定年になつたけど、四月からは
どうなさるんです。」

「いや、それがねえ、きてくれといふところはあるんですが、こと
わりました。これからは家にゐて、いままで研究してきたことをま
とめたいとおもふんです。それをしないと、いままでしてきたこと
がなんにもなりませんから。」

 田鹿杵教授は大學卒業以来嗅覺の研究をしてきてゐるのである。

「ところで、けふは宇智多先生も鎌倉からこられるやうですが、宇
智多先生にならつた學生は今度の卒業生が最後だから、ここの謝恩
曾にでられるのも最後です。」

「宇智多先生のこともいろいろきいてましたが、豫科ではたいへん
だつたやうですね。だけどさういつた學生も本科にくると、苦勞し
ますからね。第一、本科にはいつたときから教室の一番まへの席は
とりあひですよ。」

「豫科ぢや、試驗のときにカンニングのしやすい席をとりあつてま
したけど。」

「それが講義のよくきこえ、みえる席をとりあふやうになるんです
からね。学生も本科で四年苦勞すると、おとなになつてくるんです。
さうして豫科のころのことをおもひだすんですねえ。」

「それで宇智多先生を毎年招待してるんでせうか。」

「豫科のときはどの先生がだめで、どの先生がよくをしへてくださ
つたか、なんてこともわかつてくるんですね。豫科の先生がたとは
一應縁がきれて、もうおまねきしても、しなくてもいいんですから
ね。いやだつた先生とか、印象にのこらなかつた先生とかはおまね
きしません。」

 さういはれれば、本科の教官はほとんど全員きてゐるやうだが、
豫科の教官でいつもまねかれてきてゐるのは、ドイツ語のほかは、
物理とか化學とか數學とか生物とかで、英語の教官はせいぜいひと
り顔をあらはしてゐるにすぎなかつた。さうして非常勤講師のすが
たは宇智多先生のほかはみいだされなかつた。

「謝恩曾なんて、ことばだけは傳統的な倫理観を表現してるけど、
眞の意味で謝恩をしてるのは豫科の先生がたにたいしてで、宇智多
先生あたりはその筆頭ぢやないでせうか。謝恩のほかに陳謝もかね
てるんではないでせうか。それにくらべると、本科の教官は今後の
職業に密接にむすびつきますからねえ。功利といつてはいひすぎだ
が、さういふ意味がはいつてくるでせう。」

「それぢや、宇智多先生もやりがひがあつたといふわけですかね。
それにしちやおそすぎますね。」

「風樹の嘆ですからね。それはさうと、甘君の塾はどうです。」

「あれはなかなかさかつてるやうです。」

「うちの息子たちもずゐぶん甘君にはおせわになりましてねえ。」

 そこに案内係が「おまたせいたしました。曾場のしたくができま
したので、どうぞおはいりください」といつて、曾場の入口の幕を
ひいた。入口の左右から奥にむかつて卒業生が列をつくつてならび、
そのうしろには父兄がたち、教官はその二列のあひだをとほり、さ
らに圓卓のあひだをとほりぬけて奥の演壇の右手にみちびかれてゆ
く。圓卓は十以上あつて、そのうへにはすでにビイルと料理の皿が
ならんでゐる。天井からは十二のシャンデリアがさがつて、灯がと
もり、二段の演壇のうへには六枚の金屏風がめぐらされ、壁には
「昭和五十九年度厩橋醫科大學卒業謝恩曾」とかいた幕がはられて
ゐる。その演壇の右がはにおほきな酒樽が二つおいてあつて、それ
ぞれひしやくがおいてある。そばの卓にはおびただしい一合桝がつ
んであつて、桝には「昭和五十九年醫科大學卒業」といふ焼印がお
してある。教官はそのまへをとほつて、右奥の壁ぎはにならんでゐ
る椅子のところにゆく。饗宴は立食だが、教官はなんとか椅子でや
すめるやうになつてゐる。
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