宇智多先生はパンの耳の袋をとりあげ、それにつづいて甘、わた
し、女子事務員が控室をでて、二階の廊下をかへりとは反對の西に
むかつた。そこのゆきどまりの窓から榛名の影絵のやうなあゐ色が
みえたが、空はまだ夕焼してゐない。そのはしから右に階段をおり
て、女子事務員はそこの裏玄関にたちどまつて、みおくつた。

 三人は裏玄関をでると、芝生を西にすすんで、講堂のよこをとほ
り、うらの矩形の溜池のそばにたつた。

「こんなとこに鯉をかつてゐたんでござんすか。」

「これが豫科の鯉です。こんなものかげにあるものだから、豫科の
人でもここに鯉がゐるといふことを知らないんですからねえ。」

 宇智多先生はさういつて、こまかくきつたパンの耳を一にぎりな
げた。鮒やまだちひさい鯉のむれがうかびあがつてきて、競争して
それをつつき、その音をききつけて、水底からおほきな鯉がうかび
あがつて、ぱくぱくとのみこんだ。

「さあ、ゆきませうか。」

 袋の半分ほどなげあたへると、宇智多先生はさういつて、豫科の
池をまはつて北にすすみ、道路をわたつて、圖書館の池にむかつた。
圖書館の玄関まへの石段をのぼると、その左手に矩形の溜池があつ
て、そこに鯉が飼つてある。三人が石段をのぼると、その足音がひ
びいて、ちひさな鯉は水面にうかびあがつた。

「鯉は冬眠するつていふが、をかしいな。さつきの豫科の鯉もみん
なおきてきましたな」と甘がいつた。

「そりや、あんた、宇智多先生がいつもパンをもつてこられるのを
知つてるから、おきだしてくるんですよ。」

 そのあひだになげこまれたパンのこまぎれめがけて、ちひさな鯉
がつきすすむが、口よりパンのはうがおほきいので、口がとどくと、
パンはすいすいとはなれてしまふ。そんなことをくりかへしてゐる
うちに、パンに水がしみて、ぶつかつて、つつくと、なにがしかが
口にはいる。しかしそれもわづかのまで、睡蓮の葉かげにねむつて
ゐたおほきな鯉もおよぎまはり、水底にゐた、とくべつにおほきい
のもうかびあがつて、ともにパンにむかつて突進しぱつくり一口で
のみこんでしまふ。

「まつたくふしぎだ、冬眠からおきだしたといふのに、ずゐぶんす
ばしこいな」と甘がいつた。「ねむりがへるが鍬でほりおこされて、
きよとんとしたといふのをよんだことがあるが、鯉はどうもきよと
んとはせんやうですな。」

「それは宇智多先生だからですよ。宇智多先生を足音で知つてるん
ですよ。あんたがひとりでくれば、きよとんとするんですよ。第一、
おきてきませんよ。」

 ちひさな鯉、鮒にまじつて、おほきな眞鯉、緋鯉、白鯉などがす
べて水面にうかんで、口をぱくぱくさせてゐる。いままで水底では
群をなしてねむつてゐた大鯉がいまは單獨に小鯉のあひだをぬつて、
背中で小鯉をすべらし、パンをとりあつてゐる。そこに宇智多先生
が一にぎりふりまく。そこにどつと鯉がおしよせる。そんなことを
くりかへして、滿遍なくなげあたへて、袋のパンもなくなると、宇
智多先生がおもひだしたやうにいつた。

「さあ、ゆきませうか。」

「……………」

「この八年この豫科で僕をまつてゐてくれたのは鯉だけでした。」

「……………」

 それから三人は無言のまま圖書館のまへの石段をおり、わたしは
そこでたちどまつて、鎌倉にかへつてゆく宇智多先生と、宇智多先
生のかばんをもつておくつてゆく甘とのうしろすがたが、つつじと
冬がれのさくらの並木路を東にすすんで、校門のそとにきえてゆく
のをみおくつた。
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