文科棟の二階の廊下の西のはしは窓になつてゐて、そこから西の
榛名群山の全容がみはらされる。冬は四時半になれば、もう西の空
がまつかにやけて、その空を背景に榛名の山々がいちやうにあゐ色
になり、紺になり、さうしてくれてゆく。宇智多先生はもうけふか
らあの夕景色をみることはできない。非常勤講師の年齢制限がきま
つてから二年半たつて、けふ二月二十日が宇智多先生の最後の試驗
である。試驗がをはつて、中食をたべれば、あとは多少休息の幅が
あつても、けふぢゆうに鎌倉の自宅にかへりつくのがしきたりであ
る。

 あの非常勤講師の定年制がきまつてから、宇智多先生の試驗はむ
つかしいとか、採點の基準がわからないとか、おなじ答案なのに評
點がちがふとかいつて、うつたへてくるものはひとりもなかつた。

 宇智多先生が試驗ををへて、控室で中食の餡パンをたべて、コオヒ
イ牛乳をのんでゐたとき、ひょつこり、着ながしの頭に手ぬぐひを
かぶつた甘がはいつてきた。ひよつこりといふのはあたらない。を
ととひの送別曾のときに、けふが宇智多先生の厩橋にくる最後の日
だといふことをきいてゐて、それできたのである。

「これは、これは、宇智多先輩、厩橋もいよいよこれが最後でござ
んすな。」

「豫科はね、これで最後です。だけど看護學校にもいつてゐますか
ら、それはまだつづけます。もつとも一週間に一度だから、日がへ
りだけど。」

「あ、さうですか。それはご縁がきれなくてようござんした。豫科
はもう何年でござんしたかなあ。立奈加主任がなまけながら、なん
とか職責をつないできたのも、これまつたく宇智多先輩のおかげで
すからな。なまけた主任が首がつながつて、精勤された先輩が身を
ひいてゆかれるんぢや、世のなかはまつたく逆でござんす。ほんと
にながいあひだご苦勞さんでした。」

「だいぶ人ぎきがわるいね。」

「いや、宇智多先輩がこられてから、もう三度も四度も授業をほつ
ぽらかしにして、やれギリシアの、韓國の、パリの、ロンドンのつ
て、あそびまはつたんですからね。そのあひだの授業はみんな宇智
多先輩におつつけてたんですからな。」

「いや、おつつけたのはギリシアの二度だけですよ。あとは春休と
か夏休とかにいつたんだから。それにおしつけたといつても、五駒
のなかの一駒だけで、あとの四駒は四人の専任に一つづつたのんだ
のだから。」

「いや、立奈加君の外遊はこれまでの日本人が西洋にいつたのとは
ちがふんですからね。これまでの日本人はまなびにいつたのに、立
奈加君は、もちろんまなんだでせうが、同時に日本の文化を紹介し
て、みとめさせたのですからね。」

「それは羽織、はかまをきていつて、法隆寺の映畫をうつせば、み
んなめづらしがつて、わいわいいふんぢやありませんか。」
「それはコロンブスのたまごでね。さういふ發表の場をつくるまで
のことは、だれがするんです。むかうのだれかがみとめなければ、
場をつくつてくれないでせう。それにああした新聞や雑誌の評價は
だれでもがうけるといふわけにはゆかないでせうね。」

「立奈加主任も宇智多先輩にそこまで買はれれば、冥加もつきると
いふものでござんす。」

 あんた、その證據に、宇智多先輩は二度のギリシアの講演と講義
のために、それぞれ四十萬圓、五十萬圓もだしてくださつたんだよ。
もつともあとでおかへししたけどと、いはうとして、宇智多先生の
面前のため口をつぐんだ。

「それはさうと、宇智多先輩は一高時代は野球部にいらしたさうで
すな。」

「いや、野球部ぢやない。部員ぢやなかつたですからね。僕は球ひ
ろひをやつてたんです。」

「ええ、たまひろひ」

「さうです。野球の球ひろひです。」

「ほう、先輩の時代には部員のほかにさういふ役があつたんでござ
んすか。」

「いや、役はありません。自分でやつてたんです。練習してるとき
に、いつも外野のもつとうしろにゐて、外野をとほりぬけてきた球
をひろつて、なげかへしてゐたんです。」

「それぢや、やはり野球部の正規の部員でいらつしたのでせう。試
合にでなくても、補缺とか、なんとかいふことで。」

「いいえ、部員にはなりません。だから野球部の壮行曾とか祝賀曾
とかのコンパには一度もいつたことがありません。ただ僕が一高を
卒業するまへの最後のコンパのときに、宇智多君もよばうといつて
くれて、はじめて出席しましたがね。そのときはうれしかつた。」

「それは宇智多先輩は」といひかけて、甘が頭の手ぬぐひをとつた
ときに、ひとたび話しだすと口がとまらない宇智多先生がつづけた。

「僕が三年になつたときに内村祐之君が醫科の一年にはいつてきま
してねえ、さつそくピツチヤになつたんですが、その年は三高に十
二對二、學習院に四對一、慶應に六對零でまけました。ところが僕
が卒業して、内村君が二年になつたときに、三島に十對一、早稲田
に七對零、慶應に四對零でかつて、はじめて一高が全国制覇をとげ
たんです。」

「ああ、宇智多先輩はちやうど一高野球部の全盛時代にいらしたわ
けですな、いや、先輩の三年間の球ひろひが實をむすんで、卒業さ
れてから全國制覇をとげたといふことでござんすな。」

「いや、さういふわけぢやないです。」

 ふたりの曾話がとぎれたとき、わたしには、さうだ、宇智多先生
はいつも表にたたないで、縁のしたの力もちにあまんじた、いや、
それにいきがひを感じた人だといふ想念がうかんだ。

「ところで、甘君の塾はどうです」と、宇智多先生がしばらくして
いつた。甘はもうそのあひだに手ぬぐひをまた頭にかぶりなほして
ゐた。

「まあ、まあでござんす。」

「宇智多先生、まあまあどころぢやないんです」と、わたしが口を
はさんだ。

「二十年まへに厩橋にきたときは、ふんどしのかへ一つしか、もつ
てなかつたんですが、いまはね。……銀行が金をかしてくれるやう
になつたのは、もうだいぶまへのことで、いまは銀行が金をかりて
くれといつて、くるんですからね。それもわれわれの常識の十萬圓
とか百萬円とかいふのとは、けたがちがふんです。」

「立奈加主任のおつしやることはねえ。いつもねえ。」

「だけど、そりやけつこうでした。ちやらんぽらんにみえる人は案
外授業のをしへかたはしつかりしてますからねえ。ここの豫科みた
いに、まだ時間にもならないのに、にげだしたり、學生の氣にいる
やうなことをしてゐたんぢや、塾はつぶれてしまひますからね。」

 宇智多先生はさういつたが、甘の一時間の授業は一時間半になつ
たり、夜は一時か三時までをしへてゐるといふことは、まだきいて
ゐなかつたはずである。

「ただ収入があればあるほど、肉體の負擔が強制されますからね
え。」

「そのとほりでござんす。」

「そこをなんとか調節して、からだに氣をつけてください。専任職
業とちがつて、さきがながいんだから。」

「ありがたうござんす。宇智多先輩も看護學校においでのときは、
甘塾にもおよりくださつて、おとまりになつてください。」

「ありがたう。さあ、ゆきませうか。」

 さういつて、宇智多先生がたちあがると、「宇智多先生、ながい
あひだご苦努さまでございました」と、控室の女子事務員がいつて、
宇智多先生のかばんをとつた。

「鯉にパンの耳をやつてゆきませう。」
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