九月も二十日ばかりすぎて、數日ふりつづいた雨もきのふからや
んだが、まだむしあつい。をととひから前期の試驗がはじまり、宇
智多先生の試驗は五駒のうち二駒は合併となつたため四駒となり、
そのうち一駒は加末他講師が、三駒はすでにロンドンから歸國した
わたしが補助監督にでて、その最後がけふの一時間目になつてゐた。
それが無事すむと、三時間目にはわたしの試驗があり、わたしはそ
の監督にいつた。もうなにもない宇智多先生は控室にゐのこつて採
點をし、午休にはいつものやうに餡パンとコオヒイ牛乳で中食をす
まし、バスの時刻をみはからつて鎌倉にむかつてかへつていつた。
漱石を尊敬し、「鎌倉漱石の曾」といふ年二度の講演曾を毎年もよ
ほしてもう十數年になる宇智多先生に、ロンドンではとくに「倫敦
塔」をみてくることを約束したが、まだその報告もしてゐない。

 午後三時から九月の教授曾がひらかれ、議題の三つ目にかかれて
ゐた「非常勤講師の定年制について」にはいつた。

「つぎに非常勤講師の定年制にうつらせていただきます。これにつ
いては六月の教授曾のときに資料をおくばりいたしましたが、なほ
教務主任から説明いたします。教務主任、どうぞ。」

 一見大工の角がりにちかい半白の夜僧努豫科長がさういふと、頭
部がちひさく、くぼんだ眼窩のなかから一瞬瞳をひからせて、田奴
寸教務主任がたちあがつた。

「いま豫科長からお話がありましたやうに、六月の教授曾で他の大
學の定年制の規定をご参考にまでおくばりいたしましたが、なほお
くれて回答がありました西北大學のものをお手もとにおくばりして
あります。ごらんのとほりこれは、専任とおなじ六十三歳になつて
みます。さて、これらをご参考のうへ、この豫科でも非常勤講師の
定年制をまうけるべきかどうか、もしまうけるべきなら、何歳が適
當かをご審議いただきたいとおもひます。」

 わたしはまへもつて、はじめから反對の發言をしたはうがいいか、
それともあとのはうがいいかをかんがへてゐた。はじめのはうで發
言した場合後続者があればいいが、なければ、あとがとだえてしま
ふ。あとで發言してそれまでの大勢をくつがへせればいいが、かた
まりかけた流をかへるのはむつかしい。教務主任の誘導ののちしば
らくだれも發言しないので、わたしが發言をもとめた。

「はい、どうぞ。」

「非常勤講師の定年制といふことは、この豫科が發足して四五年目
に議題でなく、非公式に話題にでたことがありますが、そのときの
豫科長の意見では、何歳を定年としても、その年ではまだ元氣で、
なんともない人もゐるし、反對にその年にならないうちに、ふけこ
んで役にたたなくなつてしまふ人もゐる、つまり物理的な年齢は、
じつさいの年齢とはちがふといふことをいはれて、とりあげないは
うがいいだらうといふことになつたんです。それはいまでもおなじ
とおもふんです。第二に東京から百キロといふ厩橋は非常勤講師を
とりにくいといふ地理的條件におかれてゐます。ことにドイツ語な
どでは、厩橋市近邊にはドイツ語の専任教官をおいてゐる學校はあ
りませんから、けつきょく東京あたりからきてもらふよりほかあり
ません。東京からくれば、片道の時間が三四時間かかるものですか
ら、はやくとも三時間目、たいていは午後の授業にやつときてもら
ふといふことになります。いま現状では、この學校を定年になつて、
厩橋附近にすんでをられるかた、他の大學を定年になつて、三日ば
かりとまりがけで厩橋にきてくださるかたによつて、非常勤講師を
なんとか、まかなつてゐる状態です。非常勤講師の定年制は實情に
即して、いまの二つの理由でおきめにならないやうにおねがひいた
します。」

「はあい」といつて、鼻のとがつた物理の助教授が手をあげて、た
ちあがつた。いつもきんきんした金切聲で、自分に関係ないことで
もいつぱし口をだす男である。

「いまのお話でドイツ語の事情はよくわかりました。しかし人間は
年をとり、ある年齢になれば、いくらご丈夫でも、學生との年齢が
はなれすぎてゐるといふ點で、教官にはあまり適當でないといふこ
とがいへるんです。ここらでわかい人にかはつていただきたいとい
ふ年齢があるわけです。さういふ場合にその科の主任から、あるい
は教務主任から、ここらでやめていただきたいとは、なかなかいひ
にくいんです。定年制はそれを自然に解決するもので、定年制はや
はりあつたはうがいいとおもひます。」

「はあい」といつて、べつのわかい目のぎよろぎよろした歴史の助
教授が手をあげた。これも蚊都夜鬼の息のかかつた男である。

「さきに實状のお話もでましたが、實状といへば、ある學科では非
常勤講師の先生がたびたびご病氣で、入院をくりかへされて、時間
數もたりなくなれば、試驗もおできにならないといふ事態がおきて
ゐます。ところがその先生は他の科の専任教授を定年でおやめにな
つたかたなので、ここらでおひきくださいとはなかなかいへない状
態です。ですから實状からいへば、どちらにも理由がつくわけです。
ですから、この問題はやはり一般論から判断すべきで、さうすれば、
専任教官に定年制があるかぎり、非常勤にも定年制をつくるのが自
然だとおもふんです。」

 わたしはふたたびたちあがつた。

「いま實状のお話がでまして、否定的な實状もあれば、肯定的な實
状もあるから、これはご破算にしてといふやうなお話だつたとおも
ひますが、はたしてプラス、マイナス、零になるのか、そこのとこ
ろが疑問だとおもひます。いま病氣のかたが例にとられて、この人
にやめてもらひたいとはいひにくいといふことでしたが、非常勤は
もともと一年契約のもので、一年ごとに採用をくりかへすわけです。
そのはじめの規定にかへつて、よくよくこまつた場合は、契約の時
點で今度はおねがひしないとか、あるいは一年の猶豫をもたせて、
今度はおねがひするが、明年度からできないといふことをはつきり
いへばよいかとおもふんです。これは病氣以外、たとへばドイツ語
の非常勤講師で勤務状態が非常にわるい人がありまして、その人に
主任が直接いつてやめてもらつたこともあります。つまりこれは處
置できない問題ではないわけです。一方、さきほど申しあげた地理
的條件につきましては、適當な非常勤講師をあらたに採用するとい
ふことは非常に困難なことで、解決するのがむつかしいんです。立
法といふのは、法がなければ解決できない問題があつて、はじめて
もちあがるので、この場合實状からいへば、ないはうが適當だとお
もひます。」

「いまのお話はよくわかるんですが」と、目のぎよろぎよろした助
教授がふたたびたちあがつた。

「東京から優秀なものがなかなかこなくなつたとおつしやいました
が、東京には文科のある大學がたくさんできてゐまして、二三の優
秀大學出身といふわくをはづせば、みつかるんぢやないでせうか。
出身大學が一流でなくても、そこをでた人がみな二流のいふわけで
はなく、なかには優秀なものもゐるんぢやないでせうか。さういふ
ところからも、さがしていただけないでせうか。」

 これは表面上公正のやうで、じつさいはさううまくゆくものでは
ない。どこの主任教授でも教子をうりこまなくてはならないのであ
る。さうしてうりこまれた人がこの學校の専任にもゐて、さういつ
た人のドイツ語の讀解力は東京の一流大學の法科の學生にもおとる
のである。いまかういふことをいつた夫子自身、いやもうこの豫科
の専任教官の四分の三は二流大學出身になつてゐる。大學の格差を
口にするのは禁忌となり、いまの世で公然と格差をきそふのをみと
められてゐるのは野球と塾くらゐである。

 わたしはみたび發言した。

「さきほど一般論としてといふご意見もでましたが、一般論として
もさきほどもちよつとふれましたが、専任は定年退職までは身分が
保證されてゐまして、勤務状態がわるいくらゐで豫科長がやめても
らふといふ權限もないんですが、それにたいして非常勤講師は一年
契約で、その年その年の教授曾をへて任命されるんですし、健康保
険などの保護もないんですから、かういふことで立派な均衡がとれ
てるんぢやないでせうか。それから非常勤の定年があるといふのも、
けふの西北大學の資料をくはへて四つ、つまり百以上の新制大學の
なかに四つしか定年制をしいてゐないといふことのやうですから、
その事實が一般論として、あるいは實状としての大勢をものがたつ
てゐるかとおもひます。」

「はあい」と、丸型の頭のはげあがつた物理の教授が手をあげた。
これもなんにでも抽象的な理屈をひとこといはなければ氣のすまな
い男である。

「これまでのご意見では、實状からいへば、どちらにもご事情があ
つて、水かけ論になるやうですが、一般論とした場合の立奈加先生
のお話もわかるんですが、一般論としてかんがへて、たとへば非常
勤講師の定年を九十歳とか、八十歳とかにすれば、ご異議はないと
おもふんですが。その年齢についてご審議していただいたらとおも
ふんですが、いかがでせう。」

 これはいかにもたくみな誘導であつた。

「賛成」

「異議なし」

 二三のさういふこゑに唱和する、だれかれともないこゑがわきお
こつて、反對を意味する無言のものを壓倒した。
かうしてあとは年齢の問題だけになつた。さうなると當面、八十
一歳の宇智多先生のことはうかびあがれない。常識的にかんがへて、
専任が六十五歳なら、非常勤はそれとおなじ歳から五歳、せいぜい
十歳年長、すなち七十歳から七十五歳くらゐであらう。わたしは口
をつぐんだ。

「ご意見のおありのかたは」といふ田奴寸の誘導に、豫想とほり六
十五歳から七十五歳までの案がでて、けつきよくもつとも多數の七
十歳案が採用された。

 ここでもしなほ固執するなら、例外事項を提案することであらう。
それはとくに業績顕著で、豫科にとつて必要とみとめられた場合は
このかぎりでないといふことである。それは羽島大學の例にもある
し、ことに私立にはたくさんある。しかし宇智多先生にはさういふ
世間的な絢燗とした業績はなく、もしあつたにしても、この豫科の
空氣としては、さういふ實績のある人を暗々裡に拒否してみるので
ある。わたしはこれについてもだまつてゐた。
「ありがたうございました。さてこの實施は來年度からといたしま
すと、いろいろと當惑なさるむきもおありでせうから、昭和五十五
年度からにいたしたいとおもひますが、これもご賛成いただけます
でせうか。」

「賛成」

 かうして宇智多先生の在任期間は今年度ののこりと、來年度、再
來年度と、あはせて二年半といふことになつた。
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