教官が曾場のそれぞれの位置にをさまると、卒業生のひとりが自
己紹介をして、司曾を男子と女子とふたり指名し、その男子の司曾
がまづ「借越ながら司曾をおほせつかりました小池です。それでは
まづ學長西先生にご挨拶をおねがひいたします。」といひ、それが
すむと教務主任の挨拶をもとめたのち、同窓曾長にシャンペンで乾
杯の音頭をとつてもらつた。

 そのあと各自めいめいあるいは桝をとつて樽から酒をついでもら
つたり、皿に自分で料理をとつたりして、がやがやとしやべつてゐ
たが、ほどなく司曾が「ぢや、このへんで先生がたのおことばをひ
とことおねがひしたいとおもひます」といつて、第一内科の教授を
指名し、そのあとは本科豫科の教官をまじへて、つぎつぎに名ざし
ていつた。ただその番は二三人まへから司曾の補助役がつげにきた
し、またほかの用事のためにはやくきりあげる教官ははやく名ざす
といふことにしてあつた。

 本科の教授の挨拶は學長をはじめとして、役職にあるものは形式
的なところもあつたが、しかしじつさいの醫療の入口にきてゐるも
のを相手のことばだけにへいづれもなんらかの内容のないものはな
かつた。それは單なる祝辞ではない。卒業はしたものの、ほんとの
意味の醫學は今後にあるとか、これから患者に接することになるが、
その一つ一つが本番で、やりなほしはきかないとか、患者さんがみ
なさんのまへにあらはれたとき、その患者さんはなやみをもつ人だ
から、醫師もまたその人とおなじ立場までおりなくてはならぬとい
つたことで、西洋の醫科大學ならば、まづヒポクラテスの箴言を講
じ、コス島のアスクレピエイオンの遺跡でもみせるべきところを、
この醫科大學では卒業式と謝恩曾の席をかりて訓辞をあたへてゐる
のであつた。それはそれぞれの教官の實蹟のうへにたつ發想といふ
おもみがあり、そこで祝賀曾としてはいつもめづらしく深味のある
口演がきかれたが、酒がまはるとともに、しだいにそれもくづれて
諧謔がいりまじつてくる。それに話をしてもらつたあと、その教官
におくりものをして、それがおほかた哄笑をさそふやうな品物で、
たがひの雑談がしだいに曾場の主流になつてゆく。

 生理の田鹿杵教授の番になつて演壇にあがると、生理をこころざ
すものは、それだけで意義があるが、しかし一生貧にあまんずる覺
悟がなければならぬ、たとひめぐまれてもそれは僥倖であつて、期
待すべきものではないといふことをといた。さうして最後に「諸君
は親孝行ものでした。おめでたう」といふことばでむすんだ。卒業
生はどつと拍手をしたが、それは四年まへに本科にはいつたときに
このことばをきいてゐて、いまはその意味を知つてゐたからである。
田鹿杵教授は自分の三人の息子が国立大學にはいれなかつたために、
莫大な入學金、寄附がいることになり、そのためにその都度川波書
店とか旭日新聞社などから著作をだして、その印税と、その出版に
たいしてさづけられた文化賞などによつて苦境を脱してきてゐた。
卒業生は本科に入學したてのときは、親孝行といふ、多少ふるめか
しいがなかなか名譽あることばがなぜ自分たちにさづけられたか腑
におちなかつたが、いま父母の列席するまへでそれをくりかへされ
ていつになく誇をくすぐられることになつた。それはまた卒業生の
おもふ壼でもあつた。

 田鹿杵教授のことばがをはると、振袖をきた女子卒業生が「これ
をどうぞ」といつて、おくりものの箱をさしだした。箱からはかつ
てのビクターの廣告そつくりの犬の像がすがたをあらはした。しか
し耳は蓄音機のらつぱにかたむけてゐず、鼻を地上の香爐にちかづ
けようとしてゐたが、その前脚には三匹もの小犬がまとはりついて、
その邪魔をしてゐた。

 それから何番目かでわたしの番になつた。しかしもう雑談と笑聲
で擴聲器をとほしてもきこえにくくなつてゐた。わたしは演壇にあ
がると、一應用意してきてゐた、この卒業生の四年まへの閻魔帳を
とりだして、「阿部義孝九十四點、石川りえ百點、石橋勇三八十點
…………」とよんでいつた。はじめはなにごとかとおもつた聴衆は、
それが自分たちの四年まへのドイツ語の成績だとわかつたとき、お
たがひに他をしづめてききいつた。わたしはそこでよむのをやめた。
「いま諸君も點數をきいておもひだしたでせうが、この學年は豫科
のときもなかなか勉強して、成績がよかつたのです。わたしはこの
厩橋醫科大學の豫科に昭和二十七年にきて、それ以來三十二年つと
めたことになりますが、わたしはことし定年でやめますから、わた
しはいまひとりの落第生もない諸君を最後におくりだすことになり
ます。はじめはこの豫科の創設時代で、人數も六十人で、入學もむ
つかしく、したがつて合格した學生はなかなかよくできたものです。
けれども定員が八十人、百人となるにつれて玉石混淆となり、カン
ニングがふえ、ふえるだけでなく、カンニングを正當化する空氣が
瀰漫してきました。しかるに諸君の學年はそれがなかつた。ないだ
けでなく、有志のものがノオトをとつてないものや、成績のわるか
つたものをあつめて、補講をしてゐましたね。それだけでなく、わ
たしが萬葉集に興味をもつてみるのを知つて、萬葉集の特別講義を
してくれないかといつてきましたね。これは單位の問題でけつきよ
く實現しませんでしたが、しかしそのかはり町で一般むけに萬葉集
の連続講演ができたわけです。また學校内ではドイツ語の原書を放
課後ただひとりの女子學生とよんだりしました。初期のころはドイ
ツ文學曾といふのがあつて、七八人の學生諸君がたがひに輪講をし.
てゐたやうでしたが、ひとりで勉強して相談にきたのははじめてで、
そののちもそれをみならつた人がゐたものです。三十二年の大部分
はさうでなかつたにかかはらず、諸君の學年によつて、三十二年の
おもひでをかざることができたのをうれしくおもつてゐます。」
 さういひをはると、演壇のそばでまつてゐた振袖すがたの女子卒
業生が演壇にあがつてきて、おくりものをさしだした。ほそながい
箱を、のし紙をのけてあけると、なかから、どこで手にいれたのか
眞鑄の十手がでてきた。おそらく七人の得道僧のでた三年先輩の學
年のための記念であらう。わたしは礼をいつて、その十手をふりあ
げると、どつと喚聲がわきあがつた。

 それから三十分くらゐたつたときであつた。入口のはうから、な
にか人の波がゆらぎ、間があいたとおもふと、腕をくんだ三人のす
がたがあらはれ、まんなかのひとりはまつしろな頭をまへかがみに、
およぐやうな足どりであゆみ、左右のふたりは、それぞれまんなか
の人の腕をかかへてゐた。宇智多先生であつた。それに氣づいた卒
業生からどつと喚聲と拍手があがつた。ちやうど演壇の教官は挨拶
ををへて、おくりものをうけてゐたところなので、振袖すがたの女
子學生の係はそのあとに臨機應變に宇智多先生をいれようとしたが、
宇智多先生自身つかれがをさまつてからといふことで、そのつぎに
なつた。

「けふはだいぶおくれまして。ゆうべねられなかつたものですか
ら。」

「どこまでいらつしたのですか」と、すかさず卒業生がいつた。
「どこにもゆきません。家にゐました。」

「いや、先生はねられないときに鈍行にのつて、ねられるところま
で驛をおぼえてゆくんだとおつしやいました。」

「ああ、さうですか。きのふは上野から上越線にのつて新津にゆき、
そこで羽越線にのりかへて秋田、秋田から奥羽線にのりかへて、と
うとう弘前までいつてしまひました。」

「ぢや、長旅でずゐぶんおつかれですね。」

「つかれました。」

「それぢや、もう先生におみえいただいただけで十分です。あちら
の椅子でどうぞおやすみになつてください。これがわたしたちの先
生へのおくりものです。」

 さういつて女子學生が箱をさしだした。宇智多先生が箱をあける
と、木製の猿が三匹ゐて、顔はいづれも眞赤なのに、頭の毛は眞白
であつた。そのうへ、からだはまるくかがんでゐるのに、手は顔を
おほつたり、顔のよこにあてたりしてゐた。

「なんです、これは。」

「宇智多先生です。」

「僕はこんなに顔はあかくはありません。髪はしろいですけど。」

「ですから、これは宇智多先生です、試驗のときの。……みざる、
きかざる、いはざるです。」

 同時にわあつといふ喚聲と拍手が堂内にわきおこつた。


 それから四ケ月あまりたつた七月二十七日に宇智多先生は前立腺
肥大に肺炎を併發して鎌倉の自宅で八十八歳の息をひきとつた。知
らせをきいて、わたしがゆくと、その部屋の枕もとの小机にくだん
の三つ猿がかざつてあつた。
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