十數年まへにうゑた、窓したのさくらの木もすでにかなりおほき
い。この木々が満開になつて、ちりはじめるころ、昭和四十九年度
の新學期がはじまつた。宇智多先生の試驗に落第點をとつた三十九
人の學生も、再試驗にそなへて一ケ月ちかくの期間をよく勉強した
とみえ、三十二人があがり、落第が放棄をふくめてわづか七人であ
つた。例年にくらべていくらかおほいにすぎない。

 新學期がはじまつてまもなく、二年一組の授業にでようと教室の
まへまでくると、そこに二三名の學生がまちかまへてゐて、かうい
つた。

「先生、今度の時間をいただけませんか。豫科曾のための討論をし
たいんです。」

「さうかね。それぢや全部はあげられないが、最後の二十分か三十
分はやくやめよう。」

「おねがひします。」

 討論の議題はなんだらうか。それをきけば干渉がましいし、議題
がなんであらうと、かういふ申しでは無下にしりぞけないのが慣習
になつてゐる。

 しかしこれはこの二年一組にとどまらず、二組も、一年の一組、
二組も、つまり醫科の豫科全體がそれぞれ討論といふことで時間を
要求してきた。なにを討論するのであらうか。かういふ討論はスト
ライキにはいる準備段階のことがおほい。昨年も文部省の授業料値
上の決定に反對して、まづかういふ討論をして、學生の意識に浸透
せしめ、それを氣案として學生大會に提出して、ストライキが可決
された。さうなると、ふだんは講義のある日だけでればよい専任の
教官も毎日出勤して、對策の會議に出席し、表門、裏門の警備にあ
たらなければならない。

 わたしは事務室でたまたま伊万位教務主任にであつたので、この
ことを話した。

「豫科の學生がなにかやつてるやうですね。」

「じつは不穏のうごきがあるやうで、わたしも心配してるんで
す。」

「先生のところにはなにかいつてきたんですか。」

「ええ、……申しあげにくいんですが、宇智多先生のことでいろい
ろいつてきてるんです。」

「宇智多先生のことで。」

 あれをストライキの理由としようとするのだらうか。自分たちが
おもひがけなく不正行爲ができなくて、窮地におちいつたのに。

「なんでも宇智多先生のは授業でも試驗でもむつかしいといふんで
す。」

「豫科の學生はそんなに頭はわるくないのに、自分たちがなまけて
ゐて、そんなことをいつたんぢや、どうしやうもないですね。」

「さうなんです。……それにかれらは、宇智多先生の試驗の採點の
基準がわからないつていふんです。」

「どうして。」

「どこがまちがつたか、わからないから、答案をみせてくださいと
いふと、答案はみせられないといはれるんださうです。立奈加先生
もきびしいけど、どこがちがつてるといふことをみせてくださるの
で、文句のつけやうがないつていふんです。」

「僕は全員に採點したのをみせて、どこがちがつてるかをめいめい
に確認させますけどね。そのはうが力がつくとおもひますから。し
かしこれは僕のやりかたで、これをほかの先生にしひるといふこと
はできないんです。」

「おつしやるとほりです。教務としても、こまかい採點方法はおま
かせしてあるんですから。」

「ほんとは學生が答案をだしたあとで、自分でしらべて、どこがち
がつたくらゐわからなげればいけないんですがね。宇智多先生はお
そらく學生はそのくらゐはできると買ひかぶつていらつしやるんで
せう。」

 わたしはもうなくなつた英語の凡布教授のことをおもひだした。
凡布教授の英語は自由聽講だつたせいもあつて、他の科の學生もき
てゐて五百人くらゐゐたが、その試驗の採鮎は、一讀したとおもふ
と、すぐ甲とか乙とかつけてゆくので、どこがちがふから何點減點
といふやうなものではなかつた。そこで學生から、どこがちがつて.
みるか、彼はかうかいたのに甲なのに、自分もさうかいたのに丙な
のはどうしたわけかといはれれば、答案をしめして釋明することは
できなかつただらう。しかし宇智多先生はちがふ。このまへわたし
が試驗の補助監督にいつてみただけでも、出席をとつたり、試驗問
題を音讀したり、ふつうの教官のしないことをしてゐる。ただたり
ないことといへば、學生をあらかじめ、いつ不正行爲をしでかすか
しれないものとして監視することをしなかつたことだけだ。つまり
學生を自治の學生として信頼したことだけがまちがひだつたのだ。
「ただ、學生はもうひとつ、かういつてるんです。おんなじ答をか
いた學生が甲乙丙丁とそれぞれちがふ評點をもらつた、つまりおな
じ答案でひとりはあがり、ひとりは落第した、だから宇智多先生の
採點はあてにならないといふんです。それで答案をみせていただき
たいといふと、答案はみせられないといはれるんださうです。」
「しかしそれはをかしい。おんなじ答案をかいたなんて。なにか解
答でもまはさないかぎり、おんなじ答案をかけるわけがないし、で
きた、できたといつてる學生にかぎつて、その答案はまことにお粗
末なものですからね。そんな學生のいふことは、あてにならないで
すよ。」

「さうなんです。さういつたあとで、僕たちもカンニングするのは
わるいんですけどといつてるんですからね。」

「あ、それはみづから馬脚をあらはしたわけですね。正直でいいと
ころだけど。まあけつきよく、カンニングした學生が甲乙丙丁をも
らつたといふんでせう。しかしカンニングをした答案はそれ自體無
効だし、またたとひ解答どほりうつしてるつもりでも、カンニング
はやつぱりおちついてはしてないですからね。まちがへてうつした
り、一行とばしたりで、けつこうぼろがでますからね。」
「おつしやるとほりだとおもひます。」

「それから一度成績のよくない、ある學生について、わたしから宇
留多先生にしらべていただいたことがあるんですがね。先生の評價
の方法は、試驗が八十點、暗誦が二十點、合計百點になるんですが、
その暗誦は五回くらゐもやつて、その平均が二十點満點のなかにで
てくるわけです。それから試驗の八十點も、文章が六十點、單語が
二十點と區分されてるんですから、學生がおなじ答をかいたといつ
ても、疑問におもふわけです。つまり單語と文章を全部人のをみて
かくといふのはむつかしいし、たとひそのとほりにうつしても、そ
のうへに暗誦が加算されるんですから、おなじ答案がかならずしも
おなじ評價とはならないんです。」

「よくわかりました。」

「それにしても豫科の學生大會では、この問題をどういふふうにも
つていかうとしてるんですか。」

「まあ、教務當局への申しいれとしては、いま申しあげましたやう
に、宇智多先生の試驗がきびしすぎる、採點の規準がわからないの
二點につきるやうです。ただ學生大會の議題としては、それではと
ほりませんから、豫科のドイツ語の必修單位の十一單位を八單位に
へらすといふことにしてるやうです。」

 文部省の規定では醫科大學のドイツ語は八單位必修になつてゐた
が、ここの醫科大學豫科では最初からドイツ語を十四單位としてゐ
たのを、數年まへに十一單位にへらしたばかりであつた。

「ははあ、……いまの醫學はみな英語でよんだり、論文をかいたり
してるんだから、ドイツ語はいらないといつてるのは、裏にはさう
いふことがあるんですね。」

「さうなんです。たしかにドイツ語の需要は戦前とくらべれば、比
較にならないほどへつてゐるんでせうが。だからドイツ語はいらな
いといへば、いへるんで、また英語もいらないといへば、いへるん
ださうですからね。つまり日本語の本で十分一人まへの醫者になれ
るさうなんですね。ただほかの人より一歩すすんだことをしようと
すれば、英語が必要になるし、ドイツ語、フランス語、ロシア語な
どが必要になつてくるんださうです。」

「かれらのはさういふ本質的な問題ぢやないから、まじめな學生が
迷惑をうけることになるんだがなあ。」

「さうなんです。議題は必修を文部省令どほりに八單位として、あ
との三單位は先生を自由にえらべるやうにしてもらひたいといふん
です。」

「ていのいい文句だけど、自由な三單位といふのはだれも出席しま
せんね。いまの學生は。けつきょく實體は八單位といふことで、さ
うすれば、非常勤講師の宇智多先生の授業をはづせるとおもつてる
んでせうが、しかし非常勤講師はほかにもゐますからね。さういふ
人にやめてもらつて、宇智多先生には必修の八單位のどれかをもつ
てもらつたつていいわけですからね。」

「あつはは、さうなると、たとひストライキが成功したつて、なん
にもならないわけです。……わたしはこれから會議がありますの
で。」

 さういつて小柄な伊万位教務主任は扉のむかうにでていつた。
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