不正行爲はこまつたことだが、わたしが昭和二十七年にこの醫科
大學の豫科にきたときから、あとをたたない。わたしの受持の組で
は四十人内外の學生に、ひとりやふたりはたいていゐた。不正行爲
はすこし注意してみると、だいたいわかる。準備行動を要するから
である。隣同士がしようとすれば、まづそのあひだをいくらかつめ
てゐる。まへとうしろ、あるいはななめうしろとであれば、まへの
ものが答案をよこにすこしずらして、うしろのもの、あるいはなな
めうしろのものの視線がちやうどあたるやうにおいてゐる。そして
さういふのは四十人のうちに二組か三組しかないから、その二組か
三組を注意すればいいことになる。

 それからひとり單獨でするものがたまにゐた。これは名刺よりお
ほきい紙片に單語とか譯を細字でびつしりかきこんで、それを下敷
のしたか、筆箱のなかにいれておいて、監督の目がはなれたときに
みるのである。下敷は試驗のときは使用禁止になつてゐたが、禁令
が徹底してゐず、それを放置しておくと、それを惡用されることに
なつた。かういふ孤獨の行爲が一番發見しにくい。ただ、かういふ
ものは一番うしろの席をしめてゐて、筆箱はふつうのものが左はし
においてゐるのとちがつて、文鎭のやうに答案の頭にすゑてゐる。
わたしはかういふ紙片をとりあげたときに、その細字と問題がどの
くらゐ合致してみるか、しらべたことがあるが、ただの二つ、すな
はち百點満點で四點であり、それも監視の目をかすめてみたのでは、
二つともみいだせるかどうか、しれたものではない。つまり總點で
はたいしてかはりはなく、正直者がばかをみるといふ結果にはなら
ないのである。ただかういふ對處に腐心してみれば、監督者のはう
の人間もわるくなるばかりなので、それがさびしかつた。

 もう二十年もまへの昭和三十年臺のをはりのころであつた。ある
とき豫科の學生代表が「學生白書」といふ謄冩版ずりのものを教務
主任その他に手わたした。それには豫科の學生で、不正行爲の經驗
が一度もないものが十六パアセント、必要があつて適宜にするもの
が三十一パアセント、常時するものが五十三パアセントといふ數字
をあげて、豫科の試驗の實體といふものはかういふものだが、かう
いふ實體の試驗が公正だとおもふほど豫科當局は非現實なのかとい
ふのであつた。それなら試驗の監督を厳重にして、成績を公正なも
のにしてもらひたいといふのかといへぱ、さうではなく、試驗をす
れば、このやうに不正手段が介入して不公平になるから、試驗制度
そのものをやめてもらひたいといふのであつた。

 豫科當局は學生からかういふ破廉恥な、學生がはからみれば至極
正常な文書をつきつけられて困惑したものの、ただその白書を教官
一般の供攬にまかせたのみで、對策を講ずることも、相談すること
もしなかつた。試驗制度は文部省令にさだめられてゐるものだから、
一大學で改廢を論氣すべきことでなく、不正行爲は各監督の教官の
とりしまりをまつほかないといふ結論に達したのであるが、これだ
けの衝撃的な白書にたいして粗末にすぎた。學生の白書がこれほど
現在の試驗制度の病根を暴露してゐて、しかもなほ文部省令によつ
て存續させなければならないのなら、それ相應の理念をしめし、そ
のうへ、もし不正行爲をしたものがあれば、それを處罰する罰則を
まうけるべきであつた。豫科が發足して數年のこのとき、いまだこ
んな原則的な學則すらできてゐなかつた。それは二十年たつたいま
でもおなじである。


 宇智多先生にはさういつた豫科の不正行爲の歴史は話してゐない。
ただ豫科の試驗は不正行爲がおほいからといつただけである。

「カンニングをした答案は、みればすぐわかりますからね。」

それが宇智多先生の返事であつた。しかし答案だけで判定すれば、
はづれることもある。今度の三十九人といふ大量落第點はいままで
のやうに宇智多先生ひとりの監督だつたら、大部分及第してゐただ
らう。しかし試驗のときは刑事になつてもらひたいといふことは宇
智多先生にたいしていへることばではなかつた。わたしはこれは今
後も宇智多先生の試驗のときは自分か加末他講師がつきそはなけれ
ばないないとおもつた。
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