小樽駅前には歓迎の大きなアーチが建ち、歩道の両側にも、街路灯の柱から柱へ慢幕が張られ、町行く人々の心は浮き立っている。
 この夏札幌市の中島公園を札幌会場、小樽港と、水族館を含む祝津海岸を小樽会場として、北海道大博覧会が開催中である。小樽の第一会場である港内での花火大会は、岸壁に観覧席を急造して行われ三日前に終わっていたが、第二会場である祝津会場は、会期一杯開かれていた。小樽駅前から祝津会場行きのバスが、列を作って待つ人々を次から次へと運ぶのだが、駅から吐き出される人が又列の後ろに続くのである。
 小田清吉も、三台ものバスを待ってやっと乗ることが出来た。空席は勿論ない。急カーブの続く狭い道路は、バスが通ると、片側は小型車がやっと通れるくらいで、カーブを曲がるときは、人混みに押し倒されそうになる体をやっと網棚に掴まって支えた。簡易舗装の、所々穴になっている、上がったり下がったりの坂道は、それでなくても息苦しい車内を一層耐え難いものにしている。まるで蒸し風呂のようだ。やがてバスは、第二会場の祝津海岸水族館前に着いた。操みくちゃになりながら押し出されるようにバスから降りる。
 むっとする人いきれから開放され、気持ちよい潮の香を乗せた風が鼻を突いて吹き抜ける。この上なく清々しい。二三度深呼吸をして人々に混じって会場に入った。
 会場には色々な催ものがあり客も多かったが、中でも目玉の水族館は相当の人混みである。背のあまり高くない清吉には、水槽の魚は前の観客の頭に邪魔されて見えない。彼は人の列の空くのを待つため入口に引き返した。館外の磯辺にも大勢の大人子どもが楽しげに動き廻ったり座ったりしている。
 小樽の検察庁は、国道から坂を上がった高台にある。この坂を俗に地獄坂と呼んでいる。途中に警察署、検察庁、税務署があり最後の突き当たりがお寺である。
 この夏例年より暑いような気がする。後ろの窓は開けてあるのだが室内に入る微かな風までが生温い感じだ。
 第一検察官室で山本武は割り当てられた事件記録を手にして読んでいる。
 窃盗未遂事件で、被疑者氏名欄に小田清吉と記載されている。現行犯事件(犯罪を行っている現場で発覚した事件)で、逮捕手続書によると、
    逮捕警察官加藤一平が博覧会祝津会場で警戒勤務中、臨時警備員川辺和男から、掏摸らしい男がいるとの通報を受け、同人と共にその男を探している内、会場入り口付近で発見、大混みの中を追尾監視中、他人の背後に迫り手をズボン風ポケットに触れて、所謂アタリをつける挙動が見られたので、場外に出た同人をなお追尾しバス乗車場に至った。乗り場は乗客が列をなしており、同人も列に加わって乗車口に進んだので、本職等も同人の直後に位置して監視追尾したところ、直前の客の右尻ポケットに左手指を差し込み金品を抜き取ろうとしたので掏摸の現行犯と認め左手を押さえて逮捕した
旨が記載されている。
 一応窃盗未遂の現行犯としての疑いが充分である。
 山本は立会い事務官に被疑者を入室させるよう命じた。押送の警察官に腰紐を引かれ手錠を掛けた男が入って来た。椅子に座ると警察官は手錠を外し腰細を椅子の背に廻して縛ると、入り口の壁際にある椅子に座った。
 老人である。短く刈った、白髪を混えた頭髪、長い眉の下に深く窪んだ目は、奥に潜んだ鋭さを隠しようもない。
「名前は」
 山本が聞く。
「小田清吉です」
 山本は順次生年月日、本籍、住所を尋ね記録の記載を確かめ終わると
「あんたは、窃盗未遂の疑いで逮捕されて来たのでそのことについてこれから尋ねるが、その前に話して置くが、被疑者の立場にある者は、聞かれたことについて、法律で、言いたく無かったら言わなくてもよいことになっている。そのようなときはそう言えばよい。しかし、事情を話すことは一向差し支えない。では聞くが、記録によると『一昨日午後回時十分頃小樽市祝津町の博覧会場で、バスに乗車しようとしていた工藤健一のズボン布ポケットに左手指を差し込み金品を窃取しようとしたが、見張り中の警察官に取り押さえられ、その目的を遂げなかった』と言うのだがこの事実はどうかね」
 老人は伏せていた顔を上げ。
「そのようなことはしておりません」
 強い否認の言葉が返って来た。
「そうかね、刑事さんの他にもう一人警備の人も見ていたと言うんだがね、間違いないかね」
「はい間違いありません」
 むしろ静かと思わせる態度である。奥深く秘められた眼光と言い、態度と言い、これは初犯者ではないなと山本は思った。しかし記録には前科なしと書いてある。年は七十才だ。職業は靴店で屋号は「かまだ」とある。そう言えば商店街の中程にあるのを思い出した。前々からある店だ。あの店の主人が何故掏摸などしたのであろう。
「それではよく調べて見るからね、一応勾留請求をする、あんたもよく考えて見なさい。下がっていいよ」
 押送の巡査が寄って来て手錠を掛け、椅子の背に巻き付けた腰紐を解き「立って」と声を掛ける。小田は椅子から立ち上がり一礼して部屋を出て行った。同室の先輩金内副検事が「掏摸の前歴があるな」と山本に話しかける。矢張り同じ感じを持ったようだ。