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 例えば日本語などは、膠着言語といって、
名詞のあとに格助詞の「て」「に」「を」「は」を「にかわ」で付けるように添えて、
その名詞との関係を示す。
それゆえ、「私・は」や「母・を」は、二つの品詞の結合ということになろう。
そしてその結合は、比較的ゆるやかである。
それに対して、ヨーロッパの諸語は一般に、
語そのものが(主に、その語尾が)変化をする屈折言語という範疇に入る。

 その典型的な例を、次に示す。

 動詞としては、例えばイタリア語の parlare (eng. speak) の変化は、以下のようである。

parlo  (I speak, I am speaking)
parli  ( sg.: you speak, you are speaking) 但し、これは親称(親しい間柄で使う。
英語で言えば、古形の thou
parla  (he or she speaks, he or she is speaking)
parliamo  ( we speak, we are speaking)
parlate  ( pl.: you speak, you are speaking)
parlano  ( they speak, they are speaking)

 なお、イタリア語にも、私は(io)、きみは(tu)、彼は(lui) などがあるが、
主語を強調するとき以外は、ふつう省かれる。

 名詞の例としては、ドイツ語において、「キリスト」の変化は次のようになる。

Christus  (クリストゥス、 nominative 主格: キリストは)
Christi  (クリスティ、      genitive 属格: キリストの)
Christo  (クリストー、 dative 与格: キリストに)
Christum  (クリストトゥム、 accusative 対格: キリストを)
Christe  (クリストテー、    vocative 呼格: キリストよ!)

 従って「紀元後」は、nach Christo
「紀元前」は、vor Christi Geburt(キリストの誕生の前に) 等々の表現になる。
cf. nach: after; vor: before; Geburt: birth) 
これは、Christus をラテン語に倣って語尾変化をさせているが、
Christus を無変化で全部の格に使用しても構わない。

 なお、誤解のないように断っておくが、一般的なドイツ語の名詞においては、
格変化は対格までの4つの格で、日本におけるドイツ語教育では、
通例、それぞれを、1格、2格、3格、4格という呼称を使用している。

 また、この名詞の格を示す屈折語尾は、一般的に冠詞類などの付加語が担っている。
更に言えば、この冠詞類は、名詞の格のみならず、その(文法上の)性および数をも示す。

 例えば以下のようになる。

masculine
feminine
neuter
der Mann (the man) die Frau (the lady) das Kind (the child)
des Mannes (of the man) der Frau (of the lady) des Kindes (of the child)
dem Mann (to the man) der Frau (to the lady) etc.
den Mann (the man) etc.


 このようなラテン語に由来する屈折語尾も、もちろんのことだが、
現代のヨーロッパの諸言語が一様に受け継いでいるわけではない。

 大まかな言い方だけれども、
イタリア語やフランス語は、主に動詞系統の変化を引き継いで現代に至り、
現代ドイツ語などは、名詞系統の変化(格変化をするということ)を受け継いでいる。

 そして、現代語としての英語は
両方とも、つまり、動詞系統の変化をも、名詞系統の変化をも、受け継がず、
ほとんど放棄してしまっている。
このことは、ヨーロッパ諸語の中では、言語としてかなり特異なことである。
これがどういう理由によるのかは、定め難い問題ではある。



 この英語の特異性について、次に具体的に述べる。

 まず動詞について言えば、現在形においては、
強いて屈折語尾と呼べるものは、3人称単数形にの語尾の -s だけである。
他の人称には、屈折語尾は何も付いていない。
上に挙げた、parlarespeak の変化を参照されたい。
これ以上は省略するが、これは現在形に限っていない。
他の時称 (tense) ないし話法 (mood, Modus) においても、ほぼ同様の特徴を示している。

 名詞に関しても、
所有格を省略記号のアポストロフィ(主に母音 e の脱落を示す)・プラス・エス (-'s)
にしているだけで、他の格は無変化である。
少なくとも、文法上の格を明瞭に示すところの屈折語尾は見当たらない。

 このように、動詞系統、名詞系統ともに、語尾変化のきわめて貧弱な英語を、
屈折言語と呼ぶことができるのかどうか。

 それはともかくとして、Modern English は、
事実上、言語としてそのような仕組みになっている。
そしてその原因はどこにあるのか。
それは一概には特定できないところではあろうが、
英語は、
端的に言えば、ドイツ語とフランス語が結合して、生成したような言語
(この成り行きについてはのちに触れる)ゆえ、
この「両言語の遭遇」ということを念頭において全体を見渡し、
そのこと(つまり原因)を示唆する、というか、
(この原因について)何がしかの想像をさせるような現象を、いくつか、次に取り上げる。
そして問題提起としたい。


 フランス語は、明瞭な屈折語尾を持っているけれども、いくつかの人称で、
具体的に言えば、1、2、3人称の単数と、3人称の複数で、発音上では同じになる。
換言すれば、視覚上の違いはあるけれども、聴覚上の違いはない。

 例えば、動詞 parler (it. Parlare; eng. Speak) の場合は(cf.下線を引いた部分)、

je parle (ジュパルル、または、ジュパール、のような発音)
tu parles (テユパルル
il/elle parle (イルパルル、エルパルル
nous parlons (ヌパルロン)
vous parlez (ヴパルレ)
ils/elles parlent (イルパルル、エルパルル

となる。

 英語は、このフランス語の発音上の現象の影響を受けて、語尾が脱落したのだろうか。
あるいは、
フランス語において、特定の語尾(特に子音)が発音されないという現象が、いつの時代に確立したのか、おそらく中世であろうが、その中頃か、末期か、という問題もあるから、
そうすればフランス語の影響を受けたのかもしれないし、
または、ある意味でフランス語との同時並行的な現象だったのかもしれない。

 それとも、ゲルマン語の人称語尾はフランス語と大きく異なるので、
(いわば独仏の)意思の疎通をはかるため、
ゲルマン系の英語は、動詞をほとんど「その語幹だけ」の形に単純化する必要があったのだろうか。
つまりMod.E. の場合、
フランス語のような「屈折語尾はついているが、発音されない」という形ではない。
ドイツ語の trinken の -en は語尾で、語幹は trink、つまり drink である。

Cf.
ich trinke (I drink), du trinkst (you drink), .... wir trinken (we drink), etc.

名詞について見れば、
フランス語は(イタリア語も)(少なくとも普通名詞の)格の変化は消滅している。
従ってその点では、英語に格変化が見られなくても、仏語・伊語と共通で、
さほど不思議な現象ではない。
前置詞の用法が発達すると、割とたやすく格の喪失を補える。

 しかし、名詞の(文法上の)性別まで失ってしまったのはなぜか。

 名詞の文法上の性 (gender) の起源は、はっきりはしないが、
そもそもは自然の性 (sex) に基づいているのであろう。
それは、単純な「父」「母」「娘」「息子」のような単語を比べれば、
その文法上の性は自然の性に従い、
ドイツ語、フランス語、イタリア語、その他において共通である。

 ところが、自然の性からの類推で生じた文法上の性と思われるものでも、
風土的な影響を受けたり、あるいは人間の感性が働いて、微妙な差異を生じさせる。

 これは有名な例であるが、
太陽」と「」の文法上の性別は、風土的な影響を受けているのか、
ドイツ語と仏・伊語とでは、互いに逆になっている。
つまり、フランス語でもイタリア語でも、
太陽は le soleil(ルソレイユ)、il sole(イル・ソーレ)と男性名詞なのに、
ドイツ語では die Sonne (ディ-・ゾンネ)と女性名詞である。
その反対に、フランス語やイタリア語では、
月は la lune(ラリュヌ)や la luna (ラ・ルーナ)と女性名詞だが、
ドイツ語では、der Mond (デア・モーント)と男性名詞となっている。

 更に言えば、この名詞の文法上の性別は、すべての名詞に、つまり広範囲な無生物まで及ぶ。
しかもそれぞれの言語で、その言語に特有な判断に基づいて、その性別を決めてゆく。
当然の結果、文法上の性は両者(ドイツ語とフランス語)においては、
あるいはその他のヨーロッパの諸言語において、ほとんど合致しなくなる。
それゆえ、
ゲルマン語の単語の性と同義のフランス語の単語の性の違いは、混乱をもたらしうる。
あるいは、少なくとも、不安定にはさせる。
従って英語においては、結局は消滅する方向へ向かったのかもしれない。