二日間の球戲大會もすぎ、六月も中旬にはいつたある日、研究室
の郵便受の蓋の音がかたつとした。とりにゆくと、今月二十一日に
おこなはれる教授曾の通知であつた。その一枚の文面の最後のはう
の報告事項のなかに「非常勤講師の定年制について」といふ一項が
一瞬目にはいつた。やつたな、最後のきりふだをつかつたなといふ
おもひが胸をはしつた。やつかいなことになつた。かういふ件を提
出するのは教務主任であるが、伊万位教授はこの四月からやめて、
田奴寸教授がなつてゐる。田奴寸はかつてこの三月で豫科長をやめ
た蚊都夜鬼の推薦で採用され、蚊都夜鬼のご機嫌うかがひに鞠躬如
としてゐる男である。

 わたしは午休になるのをまつて、この四月に豫科長になつた夜僧
努教授をたづねた。

「今度の教授曾の報告事項に非常勤講師の定年制といふのがありま
すが、もちろんここでも定年制をきめようといふんでせうね。」

「いや、あれは報告事項ですから、まだそこまではいつてないんで
す。定年制について検討した場合どちらの結果にもなりうるわけで
すから。」

 これは單なる形式的な釋明にすぎない。否決されるのをみこして
案件を提出することなどありえない。

「いつたいどこからかういふことを要求してきたんですかね。」

「いや、それは教務主任が一般の趨勢として、非常勤講師も定年制
をしいたはうがいいとおもつたんぢやないでせうか。」

「夜僧努さんもさうおおもひなんでせうか。」

「わたしも一般問題として、専任に定年があれば非常勤にも定年が
あつていいとおもふんですがね。特定の個人をさすわけぢやないん
ですが、定年がなくて、いつまでもだらだらとやつてをられて、萬
一職場でたふれられたら、文部省あたりから、あの学校はなにをや
つてるんだらうといはれることになりますからね。」

 わたしはそれをきいて、この人もここの豫科にくるまへは文部省
の大學教育課の役人だつたことをおもひだした。だからそんなあり
ふれた形式的なことばしか吐かないのだ。

「この問題は十年ばかりまへにもでたことがあつて、そのときの豫
科長は、定年の年齢をきめたつて、人によつて、そのまへにふけこ
んだり、死んだりするし、定年をこえても五六十のやうに元氣な人
もあるんだから、形式にとらはれないはうがいいんぢやなからうか
といつて、とりあげられなかつたんですがね。」

「ところが、これも特定の人をさすんぢやないですが、お年をとつ
て、いつまでもやつてらつしやるかたに、おやめいただきたいとは
いひにくいですからね。定年制があれば、そんな場合にごく自然に
解決しますからね。」

 これは内心ではやはり宇智多先生のことを問題にしてゐるらしい。

「實際問題として、厩橋は地理的條件として非常勤講師をとりにく
いんですね。厩橋自體にはほかに大學がないから、非常勤の資格の
ある人はゐません。けつきょく百キロもはなれてる東京からきても
らふほかないんです。その東京からも、十年以上もまへは、一流大
學の出身者がきてゐたんですが、いまはさういふ人はなかなかきて
くれないんです。二流三流の大學の出身者なら経歴をかせぐために
いくらでもきますがね。しかしそんな人は正直なところ學生からば
かにされてますからね。」

「それはわかりますがね。」

「十年まへにも、さういふ點が考慮されて、非常勤講師の定年制は
議題にもならなかつたんです。」

「まあ、いまは制度を整備する方向にむかつてますからね。」
 わたしはそれだけきけば、今度の豫科長の本心がわかつたし、そ
れ以上話してもむだなので、部屋をでて、教務の事務室にいつた。
をりよく氣心のわかつた女子事務員がひとり、午休のあひだの留守
をまもつてゐたので、そこにいつて話した。

「例の非常勤講師定年制の案はどのあたりからうかびあがつてきた
のかね。」

「それは田奴寸先生ではないでせうか。」

「それは田奴寸君が教務主任だからね。形式的にはさうだけど、か
ういふ問題はただ抽象的にうかびあがるものぢやないからね。なに
か切實な弊害か要求があつて、それから議題にして、規約をつくつ
てゆくんだからね。いくら教務主任が提案ずきだからといつて、な
にもないところに、わざわざ苦勞しで、こんなことをしだすことは
ないからね。それよりも、しよつちゆうでるカンニング學生の處罰
の規定すら手をつけようとしないんだから。」

「さうおつしやいますと、田奴寸先生は以志左波先生のことをおつ
しやつてました。」

 以志左波先生とは文科の教授だつたが、もう何年かまへに定年に
なつて、非常勤講師として豫科で哲學ををしへてゐる人である。

「以志左波先生が腸の手術を何回もなさつて、お休がおほいんです。
試驗のときもおやすみになつて、田奴寸先生がかはりに試驗をなさ
つたんです。」

「以志左波さんが入院されたつてことはきいてたが、癌だつたのか
なあ。」

「さあ、それは。……前期後期それぞれ十五回の授業が規定ですか
ら、……じつさいは球戲大會やなにかで、十三回くらゐしかできま
せんけど、それを大幅に休講になさつたので、田奴寸先生が補講し
なくちやならないんで、たいへんだとおつしやつてゐたんです。…
…こちらからやめていただきたいとはいひにくいし。そこに規約が
あれば自然に解消するんだつて。」

 なるほど自分と直接利害関係のある以志左波講師が直接の動機な
らもつともなことである。いや、もつとどこかべつのところの震源
からきてゐるのではなからうか。

「今度は宇智多先生のことは、學生からはなんにも投書はこなかつ
たの。」

「まゐりません。」

「學生が田奴寸君のところにたづねてこなかつたかな。」

「……さあ、それは。……わたしにはわかりませんわ。」

「しかし、休講とか、試驗が一回か二回できなかつたとかで、そん
なことをいひだすのはをかしいなあ。以志左波さんだつて、よわつ
てはをられるが、かうしてでてをられるのをみれば、致命的な病氣
ぢやなかつたからね。それに休講とか、なんとかいふのは、病氣の
ためにはつきりと表にあらはれるが、一般には表にあらはれない闇
の休講をするものがおほいでせう。」

「さうなんです。先生がたのことをあたしなんかが申しあげちや、
いけないんですけど、十五回の授業のうち八回くらゐしかなさらな
い先生がざらにあります。それで、先生、補講はどうなさいますか
と申しあげますと、僕の授業はほかでできない立派なものだから、
八回でも、ほかの人の十五回以上にあたるから、補講なんかしなく
ていいつておつしやるんです。」

「ほかの人のできない立派な授業はよかつたね。そんな人は世間か
らお座敷がかかつて、講演をたのんでくるでせうね。いま講演は一
回十萬圓、すくなくて五萬圓くらゐもらへるつていふから、だいぶ
實いりがいいんぢやないかね。」

「ところがさういふかたには、講演の依頼なんてまゐりません
わ。」

「そんなにやすむ人は、やつぱり非常勤の先生でせう。」

「いいえ、専任の先生がたのはうがおほいんです。さういふ先生が
たは、非常勤でも専任でも、ご自分がさうですから、學生にきびし
いことがおつしやれないんです。さういふ先生がたのおつけになる
成績はいちやうに甲と乙です。丙、丁はありません。」

「空手形をだしてるんですね。さうすると學生もよろこんで、なん
にもいはないわけだ。」

「さうなんです。だけど、それでよろしいんでせうか。あたしたち
事務のものは、先生がたのなさることに口だしはできないんですけ
ど。」

「こまつたな。……ところで以志左波さんもその口だつたんです
か。」

「とんでもない。以志左波先生は文科にゐたときは小人數だつたけ
ど、豫科ぢや大人數でやりがひがあるとおつしやつて、哲學者の家
とか、ゆかりの地とかを、ご自分で撮影なさつたり、教材をいろい
ろおつくりになつたり、それは熱心な授業をなさるんです。」
「人はみかけによらないものだなあ。以志左波さんは、講義などは
ほつぽらかしにして、自分の部屋で本でもよんでる人かとおもつて
たけど。……それぢや、休講したつて、自分で始末をつけるんでせ
うに。」

「さうなんです。ご自分で補講してらつしやいます。」

「そんなら、はじめの話とちがひはしないか。」

「それは、先生、……ドイツ語の宇智多先生だつて……」

 さういつて女子事務員は沈黙して、ふくよかな顔をふせた。
< 前のページ