ライプツィヒの聖トーマス教会


Aus:
Abbildung auf der Taschenvorderseite
J. S. Bach
>> Ich hatte viel Bekümmernis <<
Kantate BWV 21
Deutsche Grammophon,
Hamburg, 1969
これまで地方のことばで生活してきたひとが、標準語に接するようになるとき、
あるいは、方言であれ共通語であれ、日本語を使って生きてきたわれわれが英語を習い始めるとき、
今までのことばと新しいことばの在りかたを対比して、ことばの違いを認識し、
そして更にひとによっては、ものの見方、文化の違いまで直観するかもしれない。
しかし、自分の意志や判断がまだじゅうぶんに確立していない早い時期に、
あるいは年かさはいっているけれども自意識の希薄なひとが、他のことばに接したとき、
それを特別なもの、身につけなければいけない規範であるかのように、盲目的に、思い込んでしまうことがある。
そういうひとは、ことばは何よりも、ひととひととのコミュニケーションに使われるもの、
その背後にはそれぞれの文化があることに思いが至っていない。
幼いころから馴染んできたことばを粗野なものと卑下したり、
あるいは逆に、自分たちの普段の発音と違うからといってひとをさげすむ。
街中で西洋人をみかけると、その場の情況はまるで無視して、やみくもに将もない質問をあびせる。
また、だれかがおぼつかない英語ながら、敢えてあいさつをこころみると、
端で、その一言一句を吟味し、あげ足を取るのに汲々とする。
このようなところには、何かある種の風土的な呪縛が潜んでいるのかもしれない。
幸いなことに、大学に入って初めて出会ういわゆる第二外国語に関しては、このような呪縛はない。
それだけ、「世間一般の関心が薄い」ということをも意味しているのではあろう。
ともかく、そのおかげで、たとえばドイツ語を学ぶにしても、
ドイツ語を知らなければその人格まで疑われるとか、劣等生や落伍者のレッテルを貼られることはまずない。
それはとても気楽なことではないか。
それゆえ、ここでは、だれもが、新しいことばにたいし、比較的平静に、そして素直に接することができるので、
今までに身につけたことばとの違いを、さらにはそのことばを用いる精神的風土にまで思いを致す、
そのゆとりが自然に出てくる。
現代の国際社会において、英語が重要な役割を演じていることはまぎれもない事実である。
そしてその一方で、英語と日本語とのあいだの言語的な隔たりは、依然として、けっこう大きい。
しかし英語以外の西欧語、
たとえば「ドイツ語やフランス語やイタリア語など」のどれかを、さらに学ぶ機会に、もしも恵まれれば、
関係がかなり近いもの同士の比較をすることができるので、それらの言語の性質の違いを知り、
外からは一様に見える西欧文化にも、じつはけっこう差異があることを、ことばを通して改めて認識するであろう。
そして、英語が西欧語の中で占めるいささか特異な位置も、おぼろげながらであれ、感じ取れるのではなかろうか。
英語とドイツ語は、ヨーロッパの言語の中のゲルマン語という系統の言語に属している。
従って、両者の関わりは非常に深い。
このふたつの言語が枝わかれをした時期は一千年以上も前のことであり、その後のたがいの変遷もあるため、
英語からの単純な類推だけでドイツ語の文章を読む、ということはもちろんできない。
しかし、両者の類似点と相異点に目を配って学んでゆけば、英語の知識はかなり役に立つし、
逆にドイツ語の構造を参考にして英語を見れば、ドイツ語は英語に比して、古い形をけっこう今に残しているので、
英語の仕組みがまた、よく見えてくるであろう。