'05年・スイスの南北と西の端
07-1.<< 8/10(水) バーゼルから西南、ヌシャテル湖を掠めて、ジュネーヴへ >>
幸い、毎日、よい天気が続く。

朝晩は涼しいが、日中の気温は、体感温度で26、7度。

列車は、バーゼルを出て、しばし、ドイツ語とフランス語との言語境界線を、

縫うように走っているようであった。

フランス語名の駅モンティエが近づくと、

「プロシャンナレー、モンティエ」"prochain arrêt, Montier"

そのすぐ次ぎの駅はドイツ語名、

すると「ネーヒステ・ハルト、グレンヒェン」"nächste Halt, Grenchen"

その10分後の車内放送は、

ドイツ語名ビール、フランス語名がビエンヌと表示されている駅に着く前だったが、

「ネーヒステ・ハルト、ビール。プロシャンナレー、ビエンヌ」だった。

こういう使い分けが「自在で、かつ自然」なのが、スイスたる所以か。

以後は、ヌシャテルを過ぎ、ジュネーヴまで、すべて、フランス語の駅名になった。
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カルヴァン通りで、犬を曵いた兄チャンにジョン(ジャン)・カルヴァンの家を聞く。
右は、「カルヴァンの家」の壁に据え付けてある碑文:
「ジャン・カルヴァンは、ここに、

1518年から、彼の没年、1564年まで暮らしていた。

彼が住んだ家は1706年に解体されて、

現在の建物に建て替えられた。」

と読める。
カルヴァンは「1509年生まれ」だから、

九歳の少年の時から、死ぬまで、ここの、かつての家に居たことになる。
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刃物店で買い物をした。

合計72フランだったが、

店のオバサンは、(ものの本にあるとおり)セプトントドゥー・フロン(フラン)と言った。

バーゼルの宿のオジサンは、フラン以下の単位はセント(cente)で、

プフェニヒ(ペニヒ:Pfennig)はもう使わない、と言っていた。

が、ドイツ語としては、そうなってしまった、ということだろうが、

ドイツ本国でも、今はそうなのかどうか、確かめていない。

ジュネーヴのスーパーで買い物をしたとき、レジで小銭を出したら、10セント足りなかった。

すると、レジの兄チャンは「ディソンティム(dix centim)持っていますか」と聞いてきた。
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ホテルのテレビを付けたら、放送は、ぜんぶフランス語だった。
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ホテルでの挨拶は、朝も昼も午後も、bonjour (good day) だ。

そういえば、イタリア語の buongiorno も同じ。
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