'05年・スイスの南北と西の端
03-1.<< 8/6(土) チューリヒから一路南下、ティチーノ州へ >>
きょう乗る予定の列車はチューリヒ HB 発8時31分の InterCity だったが、

早めに、8時前には宿を出て、8時過ぎには駅に着いた。

目的の番線には、もう列車が入っていた。

駅員に列車の行き先を確かめてから、乗り込むが、なかはガラ空きだった。

発車の15分前ぐらいになって、ようやく、人がどんどん車輛内に入って来た。

8時32分、定刻に、列車は音もなく、出発した。

席の埋まりは、7割ほどである。

今回の旅行では、最大でこれぐらいの混み方で、たいてい、悠々と座ることができた。

予備知識として知っていたが、これでは予約を取る必要はぜんぜんなく、

旅行するにはとても楽である。
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チューリヒを出たときには、雲が低く垂れ込めて、じつに怪しい天気だったが、

アルプスの長いトンネルを、南へと抜けると、一転、明るい空が現れた。

途中で、三々五々と人が降り、車内の乗客が少なくなってきた。

ベリンツォーナあたりまでは、ドイツ語とイタリア語が半々に聞こえていたが、

そこを過ぎると、俄然、イタリア語が、主流になった。

三つ四つ向うのボックスに陣取っていた、休暇で故郷に帰る若い兵隊さんたちの声だった。

まわりの雰囲気が、にわかに陽気そのものになった、感がある。

そこに通りかかった車掌は、若者に呼び止められ、しばし仲間に加わった。

そんなこんなで、ルガーノまでの3時間、けっこう景色もよく、退屈はしなかった。
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ルガーノの駅に着き、駅前の通りに跨がるブリッジを渡ってから、

急坂を、2、3分、つづら折りに下って、宿に着いた。

フロントの長身の男性が、年輩の婦人ふたりを相手にしている間、脇で待つ。

応対は、ドイツ語である。

「心もとないイタリア語では、お手上げ、となったら、そのときはドイツ語だな」

などと思っていると、こちらの番になった。

とつとつと、「名前は誰それ、三人、二泊を予約している」旨を告げると、

相手は、必要事項を書き込みながら、途中で、ぜんぜん訛りのない日本語をさっと言う。

驚いて、「いったい幾つの言葉が喋れるのか」と聞いたら、「五つ」だと言う。

この少しあと、フロント脇のホールで、小さな子供ふたりを伴った若い女性と会った。

そのひとがフロントの男性の奥さんで、日本人だった。

奥さんは、「ここの小学校の授業はイタリア語で、3年生になるとフランス語も習う」

と言っていた。

ルガーノの気候は、肌寒いチューリヒとは大違い。まるで南国の夏の感、がする。
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サンタ・マリーア・デッリ・アンジョーリ教会の脇の、

今は廃止になったフニコラーレ(ケーブルカー)の脇の石段を上る。

のぼり口の標識に

FUNICOLARE FUORI ESERCIZIO / SEILBAHN NICHT MEHR IN BETRIEB /

FUNICULAIRE HORS SERVICE
 と記してあった。

登りながら、見ると、左側の斜面に沿って、廃虚になった家々、荒れた庭が、続く。

もしかしてケーブルが交通の手段で、その廃止と共に、移動が困難になってしまった、

ためであろうか。

車で上がって、あるいは下がっては来られないような場所とも見える。

ルガーノ駅まで歩いて、こんどはケーブルカーで降りてみた。

駅の構内から直に、町なかの広場の駅に下ることができるようになっている。

このフニコラーレは需要の多い交通手段のようで、いつも混んでいた。

降りて少し歩くと、大きめのスペル・メルカートがあった。

念のため、あすのことを、店員に確かめると、やはり日曜日は休業とのことゆえ、

二日分の食料とアルコール類(ビールとワイン)を買い込む。
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ホテルの我々の部屋は、注文を付けたわけではないのだが、

注文といえば、3人で、バス付きの部屋、朝食付き、値段は 250CHF ぐらい(2万円)で、

と申し込んだことだけ、

5階(ヨーロッパ式の数え方で4階)の広い部屋で、テラス付きであった。

テラスにはテーブルと椅子が備えてあり、

そこからのモンテ・ブレへの眺めが、また、格別である。
そよ風が心地よい。


もし廊下を挟んだ反対側の部屋なら、

崖が間近に迫り、何も見えなかっただろう。
Monte Brè, disegnato da Motoko-K
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