'03年・イタリア徘徊の巻
13.サン・マルコ修道院とサンタ・マリーア・デル・フィオーレ
RAI (Radio Televisione Italianna) Uno」は「NHK総合テレビ」のようなものだろうが、
朝のニュースのあと、毎日、食材や料理または園芸の番組を、

かなり時間を割いて放送していた。
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テラッツァ(テラス)で朝食をとる。
いくつかの宿が、朝食の場所として、室内の他に、テラスにもテーブルを用意していた。
旅の途中から、このテラッツァでの朝食は、涼しくて、とても快適であることに気づいた。
ここのカップッチーノの味は、どこのもおいしいが、とりわけ味がよい

(旅の途中から、カッフェラッテはやめて、カップッチーノにした)。
不思議なもので、イギリスでは、朝食にティーが欠かせない気がしたが、
イタリアでは、コーヒィが、そしてアランチャータ(オレンジジュース)も、欠かせない。
「ところ変われば、しな変わる」、というだけのことかもしれないが。
少しおおげさに言えば、朝食がうまかったか不味かったかは、カッフェの味に左右された。
少なくも、朝食の印象に、かなりの影響を与えることはまちがいない。
ここの黒人のウェイター(イタリアだからカメリエーレか)の応対も、
「バターはどこですか。」
「すぐに、すぐに持っていきます。」
と、キビキビしていて気持ちがよい。
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朝、宿を出て、、サンタ・マリーア・ノヴェルラ教会の脇、アントニーノ通りを北東へ。
メルカート・チェントラーレ(中央市場)を巻くように通り過ぎて、
以前はドメーニコ会の修道院(サン・マルコ修道院)だったサン・マルコ美術館に入る。
ロレンツォ・デ・メーディチと張り合ったジローラモ・サヴォナローラが、
かつてこの修道院の院長をしていた。
2階に上がると、通路を挟んで、両側に僧房が並んでいる。
合わせて、30から40ぐらいの数と見える。
cella と表示してある(celler か)が、まさしく独房の感。
「一見に如かず」だ、修道院の僧房がこういうものとは、ぜんぜん知らなかった。

小さなドアがひとつ。明かり窓がひとつ。

ドアの側の上部の壁が、明かり取りのために、

壁が外に面していない celle は、窓がないので、まるくくり貫かれている。
僧房の広さは6畳弱ほどだろうか。

構図は同じ、

ただし、キリストを前にして、跪いて祈っている

修道士のその手の仕草が、みな、少しづつ違う。
南の一番奥にサヴォナローラの部屋があった。
開かれた書物に、サヴォナローラの書き込みが見られる。
ここだけが3部屋続きになっていた。
北西の隅にはコージモ用 (?) の房(celle di Cosimo de' Medici と表示してあった)があり、

そこは2部屋続きになっていた。
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リカーソリ通りを南下して、ドゥオーモ(サンタ・マリーア・デル・フィオーレ)を目指す。
北側の中ほどにクーポラへの入口があった。
階段の数は463段ということだった。
こちらは身が軽いので、歩いて上るのは、さっぱり苦にならない。
柄の大きなひとは、次第に階段の幅も高さも狭まってくるし、

だいいち持ち上げる重量が違うので、息を荒くし、難儀をしている。
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ドゥオーモの頂上で、フィレンツェの町を、ひと渡り見回してから、

上って来た階段を下り始めた。
下り始めて、しばしの後、どこかからか、前の方から、

といってもたかだか4、5人前と思われたが、数人の合唱が聞こえてきた。
ドイツ風な歌か、とも思ったが、どうも、それとは少し違うようだった。
途中、降りる人たちの流れが滞ると、歌うのをやめる。
全体の行程の中ほどで、
ドームの上部の天井桟敷のような回廊を、半周する部分があるが、
そういうところでも、歌うのをやめている。
それで、こういう場所では前後の何人かは見えるのだが、

どのグループからの声かはわからない。
そこを過ぎて、また、調子よく階段をトントンと降り始めると、
ふたたび前方から、合唱が聞こえてくる。
互いに声部を分担し、曲目も、次ぎ次ぎ変えてゆく。
なかなかの技量、と思えた。
我々のすぐ前を、ほぼ同じテンポで降りていた家族が、
小休止をするために、脇に除けた。
こちらはお先をし、前をゆく別なグループとの間を詰めるべく、脚を速めた。
歌がだんだん近くなってきたかと思うと、まもなく、

合唱団(クァルテット)のすぐ後ろになった。
楽しませてもらったので、下に降り立ったときに、
「ナイス・ハーモニィ」と声をかけてやった。
ついでに、どこから来たのかを聞くと、
「ロシア。ロシアからのツーリストだ。」
「大いに楽しんだ。グラーツィエ」
と言うと、喜んで、握手を求めてきた。
まだあどけなさの残る、若者4人のグループで、見たところ、学生のようであった。
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アルノ川に架かるポンテ・ヴェッキオを渡り、パラッツォ・ピッティを一瞥してから、
橋詰めまで戻ってきて、渡る手前で、右に折れ、トルリジャーニ川岸通りを、東へ歩く。
グラーツィエ橋の百メートルほど前、川岸通りの右側に、

木々がほどよく茂った小さな公園があった。
なかに入って、休み、見回すと、右奥には、公園に合わせたように

小ぢんまりとした教会がある。
向うの端に、水道栓が見えた。
手を洗おうと思い、行ってみると、栓の上部、右横に、ごつい棒状のハンドルが付いている。
右や左、上とか下に、どちらかに動くのではないかと、試してみたが、

固くてびくともしない。
すると、近くのベンチにいた上半身はだかの、一見、柄の悪そうな

(体格のよい)若者がつかつかと寄ってきて、
「やり方を知っている」
と言って、太い腕で、ハンドルをぐいっと右に捻り、水を出してくれた。
こちらが手を洗い終えるまで、そうしていてくれた(捻るのを止めると、水は止まる)。
ひとは見かけによらない。
そのしばし後、やさ形の若者が、水道栓に近寄った。
その人はやり方はわかっているが、ねじる力はあまりなさそうだった。
カッターシャツの裾を、ハンドルに巻き付けて、ようやく水を出していた。
それほどに固い。
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ヴェッキオ橋のたもとの酒屋で、これが、このたびの旅行で3本目のヴィーノだが、

2.1ユーロのキャンティ・クラッシコを買ってみた。
小生にはイタリアのワインの銘柄についての知識はないが、
飲んでみたら、今回ではいちばん上等、の味がした。
だいたい、味は値段に比例する。
それはあたりまえか。
もちろん上は切りがないだろうが、分に応じれば、これぐらいがいいところ。
それはともかく、これまで、イタリアのワインを、その味を知らずに、

あまりにも軽んじていた。
今回の旅行で、こちらは単細胞だから、すっかり見直した。
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薄紫の帯封の付いた、ある銘柄のヴィーノを、フューミチーノ空港の免税店で買って、

持ち帰った。
ところが、そのワインとまったく同じものを、しかもほとんど同じ値段で、

ある田舎都市の酒屋スーパーで、安売りをしていた。
さっそく、それを買ってきて、呑んでみたところ、味は同じだった。
話がよこみちに逸れるが、
いくつかの銘柄のスコッチ・ウィスキィ(シングルモルト)も、そこには置いてあった。
そしてその値段が、大きな声では言えないが、ある大手の輸入元が

インターネットで直販している、その価格の、およそ3分の1なのである。
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