'03年・イタリア徘徊の巻
11.ふたたびヴェネーツィアを散策
テレビの天気予報では、ヴェネーツィアは最高気温が29度、ローマは34度、ナーポリは31度。
きのうのサルミエーレで、Panzelotte con pomodolo e mozzarellacon spinaci を買う。
「今日の午後にまた来ます。」
「イタリア語がじょうずですね。」
ほんとうに、たどたどしく、難儀しいしい、ブロークンにしゃべっているので、
じょうずであるわけがない。
だが、お世辞にしても、イタリア語を誉められたのは、イタリア旅行をして9日目の、

今日が初めてだった。
「どこで習ったのか。」
「日本で。」
「学校で習ったのか。」
「いや、本で勉強した。数カ月。」
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駅の方向へ少し戻って、今日は、まだ見ていない所へ、と、
スカルツィ橋を渡ってから、東へ向かう。
Campo S.Giacomo dell'Orio のところで、少し向きを変え、カナールの方向に

(北東に)向かって歩く。
ヴァポレットの乗場、S.Stae の桟橋に、暇を持て余している (?) 改札のオジサンがいた。
「ヴァーグナーがそこで亡くなったというパラッツォはどれか?」
対岸左手の建物を指し、
「あれが、パラッツォ・カレルジだ。いまはカジーノになっている。」
あとは、伊語では手に負えなく、英語を綯い交ぜて、ト−マス・マンの

小説の舞台のリードのこと、マーラーはジェノーヴァで死んだこと等々を、

たどたどしく語り合った。
カッシアーノ教会を過ぎたところで、ヒョイと、とあるバールのメニューに、

tagliatelle alla bolognese というのが見えた。
ちょうど亭主が出て来た。
持ち帰ることができるかどうかを聞くと、できると言う。
あとでまた来る、と一旦は行きかけたが、戻って
「考えを変えた。もういちどこの店を見つけるのは難しい。いま買いたい。」
けっきょくは、その店で作ったものではなく、一種の冷蔵食品だった。
のだが、まあそれでも、あとで食べたら、量は豊富で、味も申し分なかった。
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運河べりの魚市場に行ってみた。
魚のきょうの市はもう終わった風だったが、そのすぐ脇、

運河に向かって右手の青果市場が賑わっていた。
岸壁で地図を広げている子連れの三十そこそこの小綺麗な女性に

(向かい岸にあるはずの)ある建物の所在を聞いたら、
I don't know.」のひとこと。
聞く相手を間違えた。
市場で商っている体格のよい兄チャンに声を掛けてみた。
すると、そこで買い物をしていた細身の若者も一緒になって、
Ca'd'Oro はあれだ、向うの左の建物だ!」
と、熱心に教えてくれた。
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サン・ジャーコモ・ディ・リアルト教会を過ぎ、リアルト橋を渡って、
バルトローメオ広場、Salizzada di Lio を通り、ファーヴァ教会、ジュリアーノ教会を経て、

レ・ラルガ を東へ。
そこの水路の橋から、「Ponte dei Sospiri(嘆きの橋 )」が遠くに見える。
牢獄(Prigioni)の東から回り Palazzo Ducale の南脇を過ぎ、Procuratie Nuove

(行政庁新館)の南側にある公園(下の地図の Giardini ex Reali)で休む。
この公園は、南に入口があるが、全体に木立に囲まれていて、目立たない。
サン・マルコ広場の喧噪とは打って変わって静かな場所で、海風が通る。

The city map above: from "Baedekers Stadtplan zum Reiseführer"
Mairs Geographischer Verlag - Verlag Hallwag A.G. 1987/88
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公園を出て、少し西へ歩いてから右折し、小路(Calle Vallaresso)を北へ。
突き当たった丁字路を、左へ行き、リーオ(水路)に架かる橋を渡ると、そのすぐ先に、

こじんまりとしたガラス食器店がある。
その店で、小さめのビッキエーリ(諸グラス)のセットを購入した。
西方向から東方向へと、大きくカーヴを描くように小道(カレ)を歩く。
Campo Manin を過ぎたあたりの横町で、若いカップルにサン・マルコへの道を聞かれた。
ひとの流れに沿うことと、サン・マルコ広場への方向を示す、壁のプレートを見ながら

歩けばよいこと、を教える。
相手は、話しているうち、ドイツ語を混ぜるので、
ドイツ語ができるのかを聞くと、英語とドイツ語がわかる、ということだった。
ドイツ人だったのかもしれない。
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ふたたびリアルト橋を渡る(これで4度目か?)。
マテルドミーニ教会のあたりで、若いグループとすれ違った。
そのとき、グループの一番あとにいた女性が、ひょいと振り向いて、
「コンニチワ」
と声を掛けてきた。
「ヒロシマに二年いたが、ヴィザが切れ、滞在が難しくなった、
それで、自分はルーマニア人だが、イタリアに来た、
いまはヴェネチアで仕事をしている」
という。
「では、イタリア語を話すことができるのでしょうね」
と、イタリア語で言ってみたら、途端にイタリア語に変わり、
「どこに滞在しているのか。ホテル? 場所はどこか?」
と矢継ぎ早に聞いてきたので、こちらは答えるのに、しどろもどろになった。
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宿に戻ると、フロントには誰もいない。
「ブォン・ジョルノ!」と少し大きな声で、奥の方へ声を掛けると、
天井あたりのスピーカーから
「何とかかんとか、ペル・ファヴォーレ(Please!)!」
と、丁寧な言い方が聞こえる。
つい、フロントの係でも呼び出しているのだろう、と思い込んだ。
すると、もういちど、
「何とかかんとか、ペル・ファヴォーレ!」
こちらは、それでもまだ気がつかないでいた。
三度目の、こんどは声高で、直截なアナウンス、を聞いて、やっと
「カギを(棚から)取っていってくれ!」
と言っていることがわかった。
こんなことさえよく聞き取れないのだから、ひどいものだ。
壁の上部にはカメラが付いていた。
玄関も、ドアの前に立つとブザーが鳴り、それからドアが自動で開く。
やはりカメラが付いているのだろう。
しかし、それにしても、どうして三度目まで、イタリア語で叫び続けるのか?
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あすは早出なので、いまのうちに宿の精算を済まそうと、
しばらくしてから、またフロントへ行ってみた。
こんどは人がいた。
「明日は、8時15分ごろに、このホテルを出発する。それで、いま部屋代を払いたい。」
到着時に言われた通り、一泊150ユーロのままだった。
余分に取られることはなかった。
「朝食は、早めに取りたいでしょうか?」
「できうるならば。」
「それでは、7時30分にビュッフェに来てください。」
「それはありがたい。」
いつもは8時からの朝食を、30分早めてくれた。
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この二日間、ヴェネチアの町を、たてよこ斜めに、くまなく歩き回った感がする。
歩き回るのに夢中になり、悠長なヴァポレットには、乗るどころではなかった。
船は、いずれまたの機会に、というところだ。
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この日の夕方のテレビは、しきりにシエーナからの中継(競馬)を流していた。
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