'01年・ドイツ再訪の巻 |
10.ベルリンの東と西
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宿は、ベルリーン・ツォー駅の前を横切るヨーアヒムターラー・シュトラーセがクーアフュルステンダムと交差したところの近く、マイネケ通りをちょっと南に下ったところだった。 |
ツォー駅からは、歩いてほんの7、8分のところである。 |
部屋は古風な建物の2階の奥の二部屋続き(スウィート)で、広々としている。 |
ベルリンの目抜き通りがすぐそばなのに、このパンズィオーンの中庭には樹木が生い茂り、夜中は通りの車の音がかすかに聞こえるのみであった。 |
ほとんど深閑としている。 |
リフトは、見ていると、螺旋階段の中空の部分を箱だけが浮いたように上がってゆく。 |
面白そうなので、乗ってみた。 |
今でもまだ残っていたか、というような代物で、 |
開け閉めに少し手こずるほどの、博物館入りのようなリフトだが、 |
まだまだ役には立っていると見えた。 |
カギは、ミュンヒェンの宿とほぼ同様で、部屋のカギと建物のカギの二つを渡され、出入りは自由だった。 |
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ベルリンは、ふた昔前に、西と東を見て回ったのだが、 |
当時は町が分割されていた。 |
そしてどちらかというと、西よりも東の方に、見るべきものが多かった。 |
東ベルリンへは、ツアー・バスで西ベルリンから入った。 |
チェックポイント・チャーリーで検問を受け、東側のガイド(官憲の者)が乗り込んできて、 |
あとは、向こうの意のままに、オストベルリーン内を引き回された。 |
ガイド(女)は監視役のようなので、写真を撮るときに、初めは、いささか気を遣った。 |
が、そのうちに慣れてきたので、ガイドの写真も一枚、記念に撮っておいた。 |
ともかく、そんなこんなで注意が散漫になったせいか、どこをどう観光をさせられたのか、どうも記憶があまり定かではない。 |
今回は、着いた翌朝に、まず手っ取り早い方法を選び、 |
最寄りの市内観光バスで、なるべくこまめに巡るものを探した。 |
今はすでに、東西を分かつ壁が取り払われているので、昔とは違い、縦横に走ってくれるはずである。 |
ちょうど、オイローパ・センタの、道路(タウエンツィーンシュトラーセ)を挟んで、向い側に、それらしき2階建てバスが停まっていたので、運転手に聞き、 |
そのバスの脇に停めてあるワゴン車で、チケットを購入し、乗車した。 |
ヘッドフォンが付いていて、独、英、仏、ス、伊、日、その他に、中央スカンディナヴィア語という意味の表示とおぼしきものと、何語かわからないものが一つあり、自由に選べるようになっていた。 |
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市内観光のバスというのは、町中をジグザグに走り回るので、ときどき位置関係がわからなくなったが、 |
古い記憶も呼び起こし、地図とコンパスを交互に見ながらあたりを眺めていると、何となく全体の様子がわかってきた。 |
今回、ベルリンに来るまでは、ぜんぜん思い付かないでいたのだが、二十年前の写真を持ってくるべきだった。 |
前述したように、当時、東ベルリン内では、初めは多少神経を使い、控えめに写真を撮っていたのだが、またとない機会かもしれないと思い、遂には、やみくもにシャッターを切った。 |
それがため、場所がどこか、よく分からない、という写真が何枚かある。 |
残念なことをした。 |
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市内遊覧ののち、ドレースドゥナー・バンクというのが目に入ったので、トラヴェラーズ・チェックを換金しようとしたが、 |
そういう業務をしていないということで、ダメだった。 |
どうも地方銀行での換金の可能性は半々だ。 |
ドイッチェ・バンクが見つかったので、そこに入る。 |
窓口まえの人の列のあとに並ぶ。 |
二人ほど前に、アラブ系と思われる親子がいた。 |
何気なしに見ていると、男親が、少年にアメ玉の缶のようなものを出させ、その蓋を空けて、中から金の粒とおぼしきものを取り出した。 |
行員は、どこかへ行って戻ってきたり、電話をかけたりと、しばし手間取っていたが、 |
やっと、それを天秤に載せて計ってから、マルク紙幣を渡していた。 |
缶にはまだまだ入っていた。 |
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ベルリンの有名デパート KaDeWe(カー・デー・ヴェー)に入る。 |
町なかでトイレが必要なときは、デパートに入ればよいようだ。 |
だいたい2階か3階、ときに5階(レストランがあって、その脇)ということもある。 |
デパートには、ワインも、各国別に分けて、ドイッチャー・ヴァインは産地ごとに分けて、何列もの棚に、壁の棚にも、山ほど並べてある。 |
試飲をさせ、講釈をするオジサンもいる。 |
こちらは夕食用に、モーゼル・ヴァインの上の下ほどの瓶、例によってカビネットのトロッケンを購入する。 |
20マルク弱だから、1100 円ぐらいか。 |
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