'01年・ドイツ再訪の巻 |
8.夏のさなかのヴァイマール
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ライプツィヒからヴァイマールまでは近いのだが、往復ともインタ・シティ・エクスプレッスを使ってしまった。 |
往きは 9時22分発の ICE 1652 で、帰りは13時45分発の ICE 1559 。 |
ヴァイマールでは、快晴で、昼過ぎには 35℃はある、と思えた。 |
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歩きながら、画家ルーカス・クラナッハが晩年を過ごした家というのを探したが、これがなかなか分からなかった。 |
ゲーテの『ヴェルター』のモデル、シャルロッテ・ブッフ、のちの宮中顧問官未亡人シャルロッテ・ケストナーが、後年(1816年)、名士ヨーハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテと再会すべく、ヴァイマールを訪れた。 |
これは史実に基づいている。 |
そしてその際に、シャルロッテはホテル・エレファントに泊まった(と、作家トーマス・マンは、自作『ヴァイマールのロッテ』において、設定した)。 |
ルーカス・クラナッハが住んでいた家は、このホテル・エレファントの近くのはずなので、適当に、誰彼となく、当たってみた。 |
若いアメリカ人の学生らしいのに聞いたら、ルーカス・クラナッハそのものを知らないと言った。 |
中老年のアメリカ人夫婦が、ぶ厚い案内書を繰って、探し当ててくれた。 |
その本には「現在閉鎖中」ともあった。 |
何のことはない、目の前の建物の一角が、当の人のかつての住まいだった。 |
左手がレストランで、そこの日除け付きのテーブルが「クラナッハの家」の前まで、(不法?)占拠していた。 |
「クラナッハの家」の玄関の上方に、目立たなく、銘文があり、 |
「この家に、ルーカス・クラナッハは1552年から、かれが亡くなる1553年10月16日まで、住んでいた」と読めた。 |
死の前年から、1年間を、ここで過ごしたということか。 |
右の銅板画:
ルーカス・クラナッハ
「マルティーン・ルター」1521年
Martin Luther. 1521.
Kupferstich von Lucas Cranach d. Ä.
Aus "Deutsche Geschiche und Kultur"
Max Hueber Verlag, Ismaning bei München,
1872, S.51
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帰りの列車内の暑さは格別であった。 |
インタ・シティには、冷房がついていないし、窓も開かない。 |
乗客はみんな汗だくで、朝のテレビの予想では、日中は 37、8℃、と言っていたが、ほんとうにそれぐらいありそうだった。 |
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昨日と同じように、ライプツィヒ駅の地下で、 |
生肉を刻んだものをパンに挟んだもの
(今日のにはハッケンペーター・ブレートヒェンとあった)、 |
半生のサラミソーセージを挟んだもの(ザラーミ・ブレートヒェン)、 |
そして、ヘーリング(ニシン)を挟んだものも求めようとしたら、 |
酢漬けかそれともオイル漬けかと言うので、酢漬けの方を買った
(ビスマルク・ブレートヒェンなんていう名前が付いていた)。 |
ニシンは大きいのがまるまる一匹挟まっていた。 |
こんな「生のもの」ばかりを毎日、しかもけっこうな量を食べ続けたが、 |
それでいて、胃腸の丈夫ではない小生が、旅のあいだ一度も腹をこわさなかった。 |
連れは、よくチーズ類を選んでいた。 |
とくに、これは南イタリア特産の生チーズのようだが、モッツァレルラ (mozzarèlla)というものを、たっぷり挟んだブレートヒェンなんかをおいしいと言っていた。 |
ライプツィヒの駅には、インビス(キオスク、スタンド)のたぐいがない。 |
ヴァイマールも同じ。それでビールが、駅では買えない。 |
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